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渋谷川周辺の水路敷群(宇田川上流その2)

ややこしくなってきたのでOpentStreetMapで代々木上原駅周辺を拡大してみる。
現在の地図に昭和10年の地籍図を重ねてみると、本流については現在もおおむね水路敷として残っているが、線路下やその間にある水路の跡は大半が失われている。
(参考資料:国立国会図書館デジタルコレクション所蔵「東京市渋谷区地籍図下巻(旧千駄ヶ谷町、旧代々幡町)」内山模型製図社, 1935、渋谷区立中央図書館所蔵「火災保険特殊地図(戦前)渋谷区」沼尻長治/都市整図社, 1937)
現在の地図に昭和10年の地籍図を重ねてみると、本流については現在もおおむね水路敷として残っているが、線路下やその間にある水路の跡は大半が失われている。
(参考資料:国立国会図書館デジタルコレクション所蔵「東京市渋谷区地籍図下巻(旧千駄ヶ谷町、旧代々幡町)」内山模型製図社, 1935、渋谷区立中央図書館所蔵「火災保険特殊地図(戦前)渋谷区」沼尻長治/都市整図社, 1937)

南側の水路跡はのちほど見ていくとして、まずは本流を進んでみる。
次の交差点(昭和10年の地籍図では「東橋」)でも南側から合流してくる水路があった。
次の交差点(昭和10年の地籍図では「東橋」)でも南側から合流してくる水路があった。

そのすぐ先、今度は北側(写真右)から合流してくる水路敷がある。昭和10年の地籍図では左からも合流してくる水路敷があるのだが、そちらは見た目では失われている(現在の地籍図でも図面上の水路敷は残っている)。

南側の駅前に行ってみると、地籍図で水路敷があるあたりにフェンスに囲まれた空間が残っている。ここが水路敷なのかもしれない。
この写真は2025/12/22撮影。
この写真は2025/12/22撮影。

北から来る水路敷は生活道路として利用されているようだ。まっすぐ進んでいくと、本流の北側を並走する水路敷からつながっていた。
ここからの写真は2024/6/19撮影。
ここからの写真は2024/6/19撮影。

本流側に戻って西へ。次の交差点でも北側から水路敷がきているが、この水路敷は現在の地籍図には描かれているものの昭和10年版には記載がない。もっとも、昭和10年版では地図の境目にあるので実際には水路があったのかもしれない。

本流の水路敷は代々木上原駅前にある西原児童遊園地に突き当たっていったん途切れている。
空中写真ではこの先にも川跡らしき境界線が見えるが、現在の地籍図では公園の先に水路敷はない。
空中写真ではこの先にも川跡らしき境界線が見えるが、現在の地籍図では公園の先に水路敷はない。

ここでいったん一番南側の水路跡に目を向けてみよう。南側の水路は代々木上原駅東側では線路脇の道路上にあるが、西側は線路の南側にある谷筋を流れていた。写真は駅東側から上流方向に見たところ。
昭和10年の地籍図では大きく2本の並走する水路が描かれているので、そちらの上流端まで行ってみる。
この写真は2025/12/22撮影。
昭和10年の地籍図では大きく2本の並走する水路が描かれているので、そちらの上流端まで行ってみる。
この写真は2025/12/22撮影。

代々木上原駅西側の代々木上原第2架道橋の下から南を見たところ。地籍図では写真奥から左に向かって水路があったが、写真奥の井ノ頭通りに向かって嵩上げされているため水路の跡は見当たらない。
この写真は2024/6/19撮影。
この写真は2024/6/19撮影。

井ノ頭通りの代々木上原駅南交差点から南に向かう道路。昭和10年の地籍図では道路右側の歩道付近に水路敷が描かれている。この水路敷は東北沢駅近くの三田用水左岸側にあるドルトンスクール付近から流れてきている。
ここからの写真は2025/9/24撮影。
ここからの写真は2025/9/24撮影。

一方、ひとつ西側の道では井ノ頭通りから階段を下りていく必要がある。昭和10年の地籍図にはこちらにも水路敷が描かれており、こちらは東北沢駅手前の架道橋下あたりから流れてきている。

西側の水路敷はすぐに上原中学校に突き当たっていったん途切れている。

東側の水路敷を進んでいくと左手に上原公園があるが、ここに地形図では写真奥の崖上を通る上原仲通り手前の上原小学校付近から来る支谷が見える。

水路敷は上原中学校の正門と上原社会教育巻の間を西寄りにカーブしながら抜けていく。

中学校の校庭を通り過ぎた先、左にある日本基督教団代々木上原教会の前を通る坂道も地形図では支谷になっている。

西側の水路敷は上原中学校西側で復活するが、そこからすぐ先で北側の崖を上る斜めになった階段を見つけた。

水路敷は道路になっているが、写真奥ではマンション敷地の方に外れて行き痕跡を追えなくなる。

谷頭付近には小田急線をくぐる代々木上原第3架道橋がある。水源がどこにあったかははっきりしない。

東側の水路敷は一方通行の坂が下りてくる出口付近で真っ直ぐ崖下を流れていたと思われるが、こちらもここで失われている。
昭和12年の地図ではここが上流端となっている。
昭和12年の地図ではここが上流端となっている。

前の写真で奥に写っていたマンションの西側に回ってみると、下流方向に向かって枯れた開渠のある水路敷が残っていた。
昭和10年の地籍図ではこのあたりが上流端となっている。
昭和10年の地籍図ではこのあたりが上流端となっている。

振り返って見たところ。写真左側がドルトンスクールの敷地で、そのあたりが谷頭だと思われる。写真奥の坂の上には三田用水が流れていた都道420号鮫洲大山線が見えている。

さて、ここからはいったん代々木八幡5号踏切跡の北側で支流と北側の流路が交差するところから西へ向かい、本流と別れるところまで行ってそのまま本流の上流端である狼谷(大上谷)まで進んでいこう。
ここからの写真は2025/9/8撮影。
ここからの写真は2025/9/8撮影。

少し進んでいくと若干いびつなY字路がある。昭和10年の地籍図では両方の道に水路敷が描かれている。

真っ直ぐ進んで道なりに左へ曲がったところ。丁字路の左側あたりに地籍図では水源のように描かれた部分があり、そこから水路敷が始まっている。
昭和12年の地図ではそもそも北側流路が描かれていないので実際に水源があったのかどうかはわからない。
昭和12年の地図ではそもそも北側流路が描かれていないので実際に水源があったのかどうかはわからない。

左の道はくねくねと上流へ向かう。

途中、南側の東橋の隣に出る支流がある。

さらに上流へ進んでいくと、丁字路になっていてそのさきは私有地となってしまう。
昭和10年の地籍図では車庫になっている先にも水路敷が続いているのだが、現在の地籍図では出口付近の水路敷が途切れており、払い下げられているようだ。
昭和10年の地籍図では車庫になっている先にも水路敷が続いているのだが、現在の地籍図では出口付近の水路敷が途切れており、払い下げられているようだ。

突き当たったところで左(南)の代々木上原駅方向を見たところ。この道路は昭和10年の地籍図では水路敷ではないが、現在の地籍図では水路敷が描かれている。

国土地理院Webサイトの昭和11年空中写真(陸軍撮影)に昭和10年地籍図の水路を重ねてみた。
写真左下には大正2年(1913年)に開設された大山園という遊園地があり、その周辺は昭和6年(1931年)に代々木大山分譲地として区画整理して売り出されていて水路も失われている部分が多いが、左上の本流上流端付近には残っている水路敷もあるのでそちらまで見ていこう。
(参考:国立国会図書館デジタルコレクション所蔵「東京府豊多摩郡誌」東京府豊多摩郡, 1916、「新編武蔵風土記 巻之十一豊島郡之三」など)
写真左下には大正2年(1913年)に開設された大山園という遊園地があり、その周辺は昭和6年(1931年)に代々木大山分譲地として区画整理して売り出されていて水路も失われている部分が多いが、左上の本流上流端付近には残っている水路敷もあるのでそちらまで見ていこう。
(参考:国立国会図書館デジタルコレクション所蔵「東京府豊多摩郡誌」東京府豊多摩郡, 1916、「新編武蔵風土記 巻之十一豊島郡之三」など)

代々木上原駅西側に出て北向きの道路を見たところ。
本流は写真右(東)側の電柱の向こうにある交差点あたりから東へ流れていたはずだが痕跡はない。また、昭和10年の地籍図では水路は交差点西側から流れて来ており、水路が北から流れてくる部分ももう少し西側にあった。
本流は写真右(東)側の電柱の向こうにある交差点あたりから東へ流れていたはずだが痕跡はない。また、昭和10年の地籍図では水路は交差点西側から流れて来ており、水路が北から流れてくる部分ももう少し西側にあった。

北へ進んで前の写真奥に見えた交差点まで来た。地籍図には見えないが、正面の道路右側の歩道が上流から来る水路敷と思われる。

交差点から東側(右)を見たところ。西原防災・防犯センターの右側にある行き止まりの道は北側流路の上流部分ではないかと推測される。

振り返って西側を見たところ。この交差点はさきほどの行き止まりの道を含めると実質的に六叉路になっていて、写真手前に2本、手前右手に上流端からの水路跡、手前左手が代々木上原駅方向となっており、奥にある2本のうちまっすぐ(方角としては西南)進んでいくの周辺が低地になっている。
昭和10年の地籍図にある水路は現在の道路と一致しないが、ここを進んでいくと大山園の跡に行き当たる。
昭和10年の地籍図にある水路は現在の道路と一致しないが、ここを進んでいくと大山園の跡に行き当たる。

西側へ進んでいくと行き止まりは擁壁になっていて当時の様子を偲ぶべくもないが、擁壁の向こうが大山園の跡地で谷頭であった。
ここからの写真は2025/9/24撮影。
ここからの写真は2025/9/24撮影。

さて、先ほどの六叉路交差点に戻って北の上流端を目指す。道路右側に水路跡と思われる歩道を持つ道路は写真奥で上り坂になっている。

歩道はそのまま坂道を上っていくのだが、水路はそちらではなく右斜め(真北)の方から来ていたようだ。

途中、嵩上げされていてわからなくなっているが昭和10年の地籍図では左側に並走する水路があって道路との間にはテニスコートがあると書かれている。
国土地理院Webサイトの昭和22年空中写真(米軍撮影)ではすでに住宅地になっていて左側の水路も失われている。
写真奥の交差点から先は上り坂になっており、谷筋と水路は西側から来ていた。分譲地となった際に左に曲がったあたりの水路は失われている。
国土地理院Webサイトの昭和22年空中写真(米軍撮影)ではすでに住宅地になっていて左側の水路も失われている。
写真奥の交差点から先は上り坂になっており、谷筋と水路は西側から来ていた。分譲地となった際に左に曲がったあたりの水路は失われている。

前の写真奥に見えているマンションの裏側、斎場の脇に細い道が北へ向かっている。地籍図でも水路敷にはなっていないが谷筋で、西原小学校のプール付近が谷頭のようだ。

南側の崖上からは代々木大山公園が張り出して建てられている。

公園に上る階段から振り返って斎場の方を見たところ。なぜか水色の点線で示したあたりだけ現在の地籍図でも水路敷が取り残されて描かれている。

代々木大山公園北側の谷間が「新編武蔵風土記稿 巻之十一 豊島郡之三 野方領代々木村」の項で狼谷(大上谷、大神谷)と呼ばれていた宇田川の最上流部となっている。
(なお、新編武蔵風土記稿の記述は現代では差し障りのある表現が含まれるため引用は差し控える)
写真は公園の西北側入口になっている階段で、その下あたりに下流へ向かう南側の水路があったのではないかと思われる。
北側の水路は公園北にある独立行政法人製品評価技術基盤機構(NITE)の敷地内を流れていたようだが、痕跡は失われている。
(なお、新編武蔵風土記稿の記述は現代では差し障りのある表現が含まれるため引用は差し控える)
写真は公園の西北側入口になっている階段で、その下あたりに下流へ向かう南側の水路があったのではないかと思われる。
北側の水路は公園北にある独立行政法人製品評価技術基盤機構(NITE)の敷地内を流れていたようだが、痕跡は失われている。

階段の上から公園西側の通路を見たところ。
このあたりが上空から見ると地形がH字形になっている狼谷の西南の谷筋で、谷頭は三菱UFJ銀行寮跡(現在はマンション)あたりと推定される。
このあたりが上空から見ると地形がH字形になっている狼谷の西南の谷筋で、谷頭は三菱UFJ銀行寮跡(現在はマンション)あたりと推定される。

一方、西北の谷筋はNITEの西側にある独立行政法人国際協力機構(JICA)東京国際センターの敷地を抜けて玉川上水のすぐ脇まで伸びている。写真はJICA西側の道路を南側から見たところで、谷間になっているのがわかる。
宇田川の水源のひとつは、JICAとNITEの境あたりにある湧水池であるとされている。
宇田川の水源のひとつは、JICAとNITEの境あたりにある湧水池であるとされている。