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砧線の踏切(二子玉川園〜砧本村)
地図
OpenStreetMapで砧線跡を見る。
砧線は玉電玉川線の支線として開通し玉川線と共に廃止となった路線だが、当初は終点の砧本村から西へ延伸して狛江市に入り、小田急小田原線の和泉多摩川駅付近に達する計画があった。
参考資料:
・国立公文書館所蔵「砧線玉川砧間軌道新設線路平面圖」(玉川電氣鉄道, 1923)
・東京都公文書館所蔵「砧線玉川砧間電氣軌道線路平面圖」(東京横浜電鉄, 1940)
・キャンブックス「玉電が走った街 今昔」(林順信/JTBパブリッシング, 1999)
がんばれぼくらの世田谷線
二子玉川
玉川通りの二子玉川バス停付近。砧線と旧玉川線の二子玉川園駅はバス停右のあたりにあった。玉川線は写真右奥へ進んで現在の田園都市線の方へ向かっていたが、砧線はそこから大きく左へカーブして玉川通りへ戻ってきていた。
ここからの写真は2026/1/10撮影。
二子玉川公園通り
駅ビル北側を通る二子玉川公園通り西側から田園都市線高架を見たところ。
玉電(玉川線、砧線)は高架下と手前の地上を渡っていた。ここが最初の踏切跡ということになる。玉電の踏切については東急の資料に踏切名称が記録されておらず名前がわからないが、渋谷起点の玉川線としては身延山別院前2号踏切ということになるのかもしれない。
側道の踏切
二子玉川公園通りから田園都市線の側道を北に進んだところに、道路がクランク状に曲がる部分があるがここにも踏切があった。
1959
この踏切、昭和15年(1930年)の平面図には記載があるのだが、全国Q地図の東京都3千分の1地図(1959〜1960年)を見ると廃止されていたように見える。
水道用地
国道246号玉川通りと中吉通りの交差点から西向きに田園都市線方向を見たところ。
中吉通りを含めこの道路はもともとは水道用地で昭和15年平面図では踏切として扱われていないのだが、1960年代の地図では写真右手のビルを回り込むように出てくる砧線が左手前に向かう踏切があったように描かれている。
1963
しかし、国土地理院Webサイトで昭和38年の空中写真(国土地理院撮影)を見ると道路は北側に逃げていて、踏切にはなっていなかったように見える。
玉川通り
玉川通りに出て北側から砧線の踏切跡を見たところ。写真左の陸橋(玉川髙島屋の駐車場を繋ぐ車道と、駐車場から店舗に渡る歩道が通っている)の方が中吉通りで、砧線は写真右側へ向かう小道の方を通っていた。
花みず木通り
玉川通りを渡って西側から見たところ。砧線跡には「花みず木通り」という名前が付けられている。
南側を並走する中吉通りはバス路線も通っており、そちらが廃線跡と勘違いする人もいるようだがこちらが廃線跡だ。実際には写真右側の歩道部分に線路があったらしい。
髙島屋北
髙島屋の間を南北に通る道(水路跡)が北側で交差する踏切跡。左右に通る砧線に対して直角に道路が交わっていた。
道路左側には蓋暗渠が残っている。
中耕地駅跡
次の踏切は中耕地駅の脇にあった。歩道部分に線路があり、左側の歩道が広くなっている部分に中耕地駅のホームがあった。
石碑
交差点脇には「砧線中耕地駅跡」と書かれた石碑が建っている。
中耕地は荏原郡瀬田村の小字であった。開通当初は「遊園地下」という駅名で、ここでいう遊園地は多摩川河川敷近くにあった二子玉川園ではなく、身延山別院を含む崖地にあった玉川遊園地のことを指している。
石像
中耕地駅から西側にはしばらく踏切はなかった。途中、「砧線軌道跡」と彫られた石像が置かれていた。
散歩道
その先には「砧線跡歩道」と書かれた木柱もあった。「きしべの路」は、このあたりの砧線跡も一部になっているが、世田谷区の国分寺崖線沿いを歩く散歩道として名付けられている道筋だ。
マルエツ
マルエツの前にあった踏切跡を北側から見たところ。写真左側の幅広い歩道は谷沢川から谷川(谷川緑道)につながる水路敷で、ここで左に曲がって砧線の南側を流れていた。
車道とお別れ
吉澤駅手前で道路と分かれ、花みず木通りは自転車道と歩道だけになる。昭和15年平面図ではここにも踏切があったことになっているが、1960年代の地図には描かれていない。
吉沢橋交差点へ
花みず木通りは南へ大きくカーブして多摩堤通りの吉沢橋交差点へ。多摩堤通りにも踏切があった。
吉澤駅
南側から吉澤駅跡を見たところ。線路は道路右側を通っていて、道路左側に駅ホームがあったと思われる。
境界標その1
西側の歩道には1973年まで使われていた古い東急の社章が彫られた境界標が残っている。
ここからの写真は2026/1/12撮影。
境界標その2
北側にもう一つの境界標。
位置関係
二つの境界標はこういう位置関係。ちなみにオレンジの位置にも2021/5まで境界標が残っていたのがGoogleMapで確認できるが、撤去されてしまったようだ。
反対側
実はチェックし忘れていたのだが、道路東側の上にも社章付き境界標が並んで埋まっていた。
この写真は2026/1/23撮影。
吉沢橋
吉澤駅跡から南側の野川に架かる吉沢橋を見たところ。かつては鉄道橋(野川橋梁)で、車道の吉沢橋はやや下流側にあった。
吉沢橋手前には踏切があったようだ。
ここからの写真は2026/1/10撮影。
モニュメント
吉沢橋の上には玉電のモニュメントがある。左側の説明板には鉄道橋だった頃の、欄干がない野川橋梁を渡る玉電の写真がある。
伊勢宮河原駅跡
吉沢橋を渡って野川と多摩川の間へ。鎌田1-6遊び場こと三角公園から吉沢方向を見たところ。
昭和15年平面図には記載がないが、遊び場のあたりに伊勢宮河原貨物停留場があり、吉沢寄りに踏切があった。
伊勢宮河原は砧線の旅客駅ではなかったようで、昭和11年(1936年)から昭和15年(1940年)の間だけ砂利の積み込み用として設置されていたらしい。古地図には旅客駅として記載されているものもあるという。
(参考:平成作庭記+α:タマデン「伊勢宮河原停留場」
1941
国土地理院Webサイトで昭和16年の空中写真(陸軍撮影)を見ると、伊勢宮河原停留場跡から西へ砂利を運搬する道路が伸び、現在東京都市大学総合グラウンドになっているあたりには砂利を採取した跡の大きな水たまりができている。
一方、大蔵駅跡の南側(現在は住宅地)と、砧本村駅(1961年までは砧駅)の北側(現在はゆうぽうと世田谷テニスコートなど)にも砂利採取場跡があったことが見て取れる。
この辺りの砂利は昭和初期に掘り尽くされてしまっており、この頃にはすでに稼働していなかったらしい。
遊び場西側
公園の西側、道路が斜めに砧線跡と交差するあたりにも踏切があった。
吉沢橋から砧本村駅跡までの砧線跡は現在西向きの一方通行になっており、砧線廃止後の代替路線となっている玉06系統のバスは砧本村方向へは線路跡を進み、帰りは北へ進んで多摩堤通りを戻っていく。
都市大
現在も周辺より低い窪地になっている東京都市大学総合グラウンドの前に出たあたりから、線路跡はやや右へカーブしている。
看板のあたりに踏切があって、そこから左斜め奥に向かって砂利線が伸びていたが、宅地化されていて痕跡は残っていない。
富士山
多摩川の河原までちょっと寄り道してみると、この日は富士山を眺めることができた。
大蔵駅跡
戻ってグラウンド脇を進むと、大蔵駅跡を通る。大蔵駅は遅くとも昭和19年(1944年)ごろまでには廃止されており、現在駅跡らしき遺構は見当たらない。
浄水所東
大蔵駅後の砧本村寄り、砧下浄水所の東端にあった踏切跡を南から見たところ。
Y字路
踏切跡の西側にはY字路があり、砧線は浄水所側ではなく北側の道を進んでいた。
水道みち
砧下浄水所から北へ伸びる水道みち。昭和15年資料には記載がないが、ここにも踏切があったはずだ。
砧下浄水所が完成したのは大正12年(1923年)で、砧線が開通したのが大正13年(1924年)なのでほとんど同時に建設が進んでいたことになる。元は当時の豊多摩郡渋谷町に水道を供給するために造られた。水道みちは駒沢給水所を経由して三軒茶屋へ向かっている。
架線柱ではない
西へ進んでいくと道路右側に架線柱のような鉄塔があるが、砧線の架線柱は木製だったので架線柱ではない。
鎌田二丁目南公園
道路は鎌田二丁目南公園を避けるように左(南)に迂回しているが、砧線はそのまま直進して公園の中を通っていた。公園手前の交差点が最後の踏切となっていた。
砧本村駅跡
公園西側が終点であった砧本村駅跡。
現在はバスターミナルとして使用されており、玉06系統のバスが停まっている方向は線路と直交している。
現在バス待合所がある場所に、令和4年(2022年)まで駅ホーム上屋が待合所として使用されていた。
身延山別院前
最後に玉電玉川線の二子玉川付近にあった踏切跡を見ておこう。
写真は田園都市線が瀬田の崖下から出てきて二子玉川へ向かうあたりを南から見たところだが、写真奥の歩道橋付近に玉川線の踏切があって、その手前に身延山別院前停留場があった。開業当時は遊園地前停留場だったが、昭和7年(1932年)に改称し、昭和16年(1941年)に休止となったまま廃止されている。
この写真は2026/1/18撮影。
二子玉川
二子玉川まで戻ってきて丸子川の調布橋から中吉通りへ向かう途中で田園都市線の架道橋と交差するところにも踏切があった。写真奥には砧線が出てくる場所が見えている。
ここからの写真は2026/1/16撮影。
古レール
架道橋西側のたもとには古レールを使った柵が残っていた。玉川線が廃止されたのは昭和44年(1969年)で、当時のものなのかはわからない。
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