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たまプラーザ1号~2号踏切
地図
OpenStreetMapで東急田園都市線のたまプラーザ駅〜あざみ野駅間を見る。
昭和41年(1966年)に溝の口〜長津田間が開業した田園都市線には開業当時3ヶ所だけ踏切が存在していたが、東急100年史の資料編にある「鉄軌道事業 踏切数」によれば3年後の昭和44年(1969年)には早くもたまプラーザ1号、2号踏切が廃止されている。
この二つの踏切については同史の第5章第3節第1項2「解消が進む踏切、田園都市線は踏切ゼロに」に詳細は不明と記載されており、踏切がどこにあったのかも東急が公表している資料ではわからない。
 
というわけで謎の踏切を探せ!と言いたいところだが、実はYoutubeの「【モデラーTRAIN】東急田園都市線たまプラーザ1号、2号踏切の遺構(遺構シリーズ第3弾)」という動画で全て明らかになっていて追加する情報がないのであった。
詳しくはそちらをご覧いただくとして、せっかくなので現地に行って来た写真などはまとめておくことにしよう。
昭和41年
国土地理院Webサイトの昭和41年空中写真(国土地理院撮影)に位置関係を書き込んでみた。マウスオーバーで先に上げた動画で紹介されている国立公文書館所蔵の「東京急行電鉄(株)溝の口起点13.900km長津田間工事施工 付属図表」(当該文書は国立公文書館の一般閲覧公開対象にはなっていない点注意が必要。今回こちらでは開示請求まではしていないので引用は差し控える)を参考にして道路と踏切らしき場所をハイライトしてみた。
たまプラーザ駅から長津田方向に向かう田園都市線はすぐに元石川隧道に入るが、トンネルの下り側は周辺を含めて横浜市港北区元石川町字甚吾谷(現在は横浜市青葉区美しが丘五丁目)という地名もある谷筋で、開業当時は谷間が残っておりそこに道路と踏切があった。
この谷から西側の丘陵地は元石川第二地区土地区画整理事業が昭和42年(1967年)から同48年(1973年)にかけて施工され、谷もすっかり埋め立てられてしまっている。
(参考:東急100周年史、国立国会図書館デジタルコレクション所蔵「見つめて三十年多摩田園都市」井上早太, 1993)
元石川隧道
たまプラーザ駅西側から見た元石川隧道。
先ほども書いたようにこのあたりは元石川町という地名であった(現在の青葉区元石川町はもうすこし西側に残っている)が、昭和14年(1939年)までは都筑郡山内村大字石川、明治22年(1889年)までは都筑郡石川村であった。昭和14年に山内村が横浜市に編入となった際、中区にすでに石川町があったが地元住民の意向で石川の名前を残すために元石川町としたという。
その後旧石川村村域の大半は区画整理によって美しが丘など新しい地名が付けられ、元石川町は中央部分だけが残った形になっている。
このページの写真は2025/12/22撮影。
隧道南側
隧道の南側に向かってトンネル出口の上から、あざみ野駅方向を見たところ。
かつての谷は線路両側で嵩上げされて原型を留めていないが、写真手前右はかつての谷頭の名残をわずかに残しているようにも見える。
たまプラーザ1号踏切跡
トンネルの南側に回って出口方向を見たところ。先の動画では矢印部分だけ擁壁の種類が異なっており、たまプラーザ1号踏切の跡ではないかと推定している。踏切は写真右に見える工事用階段の手前から斜めに左奥へ渡っていたはずだ。
それにしても区画整理事業が進んでいた3年間だけとはいえ、緩やかにカーブしているトンネルを出たらいきなり踏切があるというのは異例と言えるだろう。
元石川跨線橋
トンネル南側で田園都市線を渡る元石川跨線橋から、あざみ野方向を見たところ。
早瀬川に向かって線路両側の道路が坂道を下って行き、線路を同じ高さになったところになんと踏切があるがこれは事業用の軌陸車などが出入りするために改めて作られたもののようで、国土地理院Webサイトの昭和54年空中写真(国土地理院撮影)には踏切が写っていない。
先の動画によればその踏切よりも写真手前寄り、右に見える小屋(保線車両の車庫)と架線柱の間にたまプラーザ2号踏切があったという。
たまプラーザ2号踏切
先の動画によれば(こればかりで恐縮だが)矢印のあたりがたまプラーザ2号踏切跡だということだ。
わずかに線路脇の土地が盛り上がっているのがわかる。
西側
西側の道路から踏切跡を見たところ。側線の車止めの先にわずかな平場があって矢印のあたりが踏切であったと思われる。こちらの踏切は線路と直交してまっすぐ渡っていた。
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