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南武線・矢野口〜稲城長沼

OpenStreetMapで矢野口駅から稲城長沼駅までを見る。
矢野口駅から東京都道9号川崎府中線までは平成17年(2005年)に、都道9号から西側は平成25年(2013年)に連続立体化工事が完成して踏切が廃止となっている。
矢野口駅から東京都道9号川崎府中線までは平成17年(2005年)に、都道9号から西側は平成25年(2013年)に連続立体化工事が完成して踏切が廃止となっている。

矢野口駅から西へ進んでいったところにある新田川橋梁の下を歩行者用道路が通っているが、ここは水路敷で踏切ではなかった。
国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の「稲城市史 上巻」(稲城市, 1991)P827の地図によれば、ここには大丸(おおまる)用水の一部である中野島用水が流れていたようだ。新田堀という名前の用水路はもう少し北側を流れていた。
ここからの写真は2025/12/28撮影。
国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の「稲城市史 上巻」(稲城市, 1991)P827の地図によれば、ここには大丸(おおまる)用水の一部である中野島用水が流れていたようだ。新田堀という名前の用水路はもう少し北側を流れていた。
ここからの写真は2025/12/28撮影。

さらに西側に進んで矢ノ口第三踏切跡。南武線の踏切番号は高架化前に付けられているため、ここは踏切番号No.51となる。
駅名は矢野口なのだが、踏切名は「矢ノ口」になっている。矢野口は明治22年(1889年)に合併して稲城村となった6ヶ村のひとつで、稲城という名前はこのときにつけられたのだそうだ。
駅名は矢野口なのだが、踏切名は「矢ノ口」になっている。矢野口は明治22年(1889年)に合併して稲城村となった6ヶ村のひとつで、稲城という名前はこのときにつけられたのだそうだ。

旧川崎街道から北へ南武線をくぐる矢ノ口第四踏切(No.52)跡。

旧川崎街道が南武線を斜めに渡っていた押立踏切(No.53)跡を西側から見たところ。
押立(おしたて)は多摩川の両岸にあった地名で多磨村(現府中市)の一部だったが、昭和24年(1949年)に右岸側だけが稲城村に編入されている。
押立(おしたて)は多摩川の両岸にあった地名で多磨村(現府中市)の一部だったが、昭和24年(1949年)に右岸側だけが稲城村に編入されている。

旧川崎街道のかたわらに建つ青面金剛庚申塔。祠の両脇にはいずれも馬頭観世音文字塔がある。
写真左の方には「河崎道」と彫られており、道標でもあったようだ。
写真左の方には「河崎道」と彫られており、道標でもあったようだ。

線路北側の側道を進んでいくと矢野口第5架道橋があるが、ここに踏切はなかった。

そこから西へ向かって小学校裏踏切(No.54)跡を南側から見たところ。道路というよりは昔の里道のままのような細道だ。
写真手前方向にある鶴川街道の南側に稲城第一小学校があるので、そこの裏ということだろうか。
写真手前方向にある鶴川街道の南側に稲城第一小学校があるので、そこの裏ということだろうか。

東京都道9号稲城大橋通りに桶屋踏切(No.55)があった。ここまでが連続立体化工事の第一期区間で、ここから西側は第二期区間となる。

南武線北側の側道には東長沼南武線通りという名前が付いているが、昭和30年代にはここに道路はなかったようだ。
稲城大橋通りのすぐ西側、写真中央に南側の川崎街道とつながっている道があるが、ここに踏切はなかった。
稲城大橋通りのすぐ西側、写真中央に南側の川崎街道とつながっている道があるが、ここに踏切はなかった。

その西側で川崎街道から南武線をくぐって北側に突き当たる丁字路があるが、ここも踏切跡ではない。

市役所通りが南武線をくぐっているところが稲城長沼1号踏切(No.56)跡。ここから西側は2013年の廃止となる。
稲城長沼駅の東側に1号があるのは不思議だが、中野島駅も廃止されているものの1号は駅東側にあったようで南武線にはままある命名方法なのかもしれない。
稲城長沼駅の東側に1号があるのは不思議だが、中野島駅も廃止されているものの1号は駅東側にあったようで南武線にはままある命名方法なのかもしれない。

平成25年(2013年)に高架化された稲城長沼駅。長沼は明治22年(1889年)に合併して稲城村となった6ヶ村のひとつだが、村名としては東長沼村であった。明治11年(1878年)までは長沼村だったが、南多摩郡が成立した時点で同じ郡内にもうひとつ長沼村(元八王子市)があったため改称したという。