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目黒川周辺の水路敷群(空川)

OpenStreetMapで空川流域を見る。
空川(そらかわ)は東京大学駒場キャンパスや京王井の頭線を挟んで南側にある駒場野公園北側あたりを水源として首都高大橋ジャンクション付近で目黒川に注ぐ支流で、三田用水西側の谷を流れていた。
今回は目黒川から水源を目指して遡って行ってみよう。
※参考資料:
1. 国立国会図書館デジタルコレクション所蔵
・「東京府荏原郡目黒町全圖 番地界入」(小林又七, 1930)
・「江戸の上水と三田用水」(三田用水普通水利組合, 1984)
2. 目黒区立図書館所蔵
・「荏原郡目黒村全図」(東京逓信管理局, 1911)
・「二万分の一地図 内藤新宿」(陸地測量部, 1891)
・「目黒区全図(火災保険特殊地図)」(区政資料室所蔵の地図複製, 1935)
空川(そらかわ)は東京大学駒場キャンパスや京王井の頭線を挟んで南側にある駒場野公園北側あたりを水源として首都高大橋ジャンクション付近で目黒川に注ぐ支流で、三田用水西側の谷を流れていた。
今回は目黒川から水源を目指して遡って行ってみよう。
※参考資料:
1. 国立国会図書館デジタルコレクション所蔵
・「東京府荏原郡目黒町全圖 番地界入」(小林又七, 1930)
・「江戸の上水と三田用水」(三田用水普通水利組合, 1984)
2. 目黒区立図書館所蔵
・「荏原郡目黒村全図」(東京逓信管理局, 1911)
・「二万分の一地図 内藤新宿」(陸地測量部, 1891)
・「目黒区全図(火災保険特殊地図)」(区政資料室所蔵の地図複製, 1935)

目黒川左岸の崖下にある菅刈(すげかり)公園。江戸時代には豊後国岡藩(竹田藩)中川家の目黒抱屋敷があった場所で、明治になって西郷隆盛の弟従道(初代海軍大臣、侯爵)が購入して庭園などを整備した。戦前に売却され旧国鉄職員住宅などになっていたが、平成に入って公園として整備されている。
ここからの写真は2025/10/23撮影。
ここからの写真は2025/10/23撮影。

公園西側は芝生広場として開放されているが、東側には旧西郷邸の庭園が復元されており、崖下には池も復元されている。

菅刈公園から目黒川に向かって南部橋のたもとにある桜樹記念碑。
目黒川は大正15年(1926年)から昭和14年(1939年)にかけて河川改修が行われており、その際に護岸に桜が植樹された(昭和56〜61年の再改修時に植え替えられている)ことから現在桜の名所として知られている。
なお、写真の後ろに映り込んでいるのはSTARBUCKS RESERVE ROASTERY TOKYOで、世界でも4ヶ国6店舗しかない焙煎所を備えた店舗になっており観光客も訪れる場所だそうだ。
目黒川は大正15年(1926年)から昭和14年(1939年)にかけて河川改修が行われており、その際に護岸に桜が植樹された(昭和56〜61年の再改修時に植え替えられている)ことから現在桜の名所として知られている。
なお、写真の後ろに映り込んでいるのはSTARBUCKS RESERVE ROASTERY TOKYOで、世界でも4ヶ国6店舗しかない焙煎所を備えた店舗になっており観光客も訪れる場所だそうだ。

目黒川を上流に進んで中の橋から左岸側を見たところ。写真奥へ進む道路は水路敷として扱われているわけではないが、明治44年(1911年)の目黒村全図には水路が描かれている。
手前で目黒川に合流するあたりでは下流側に出ていたのだが、その跡は失われている。
手前で目黒川に合流するあたりでは下流側に出ていたのだが、その跡は失われている。

北に向かって突き当たりの少し西側の路地は、いかにも水路敷っぽい細道になっていた。

北側の道路に出て菅刈小学校脇から西側を見たところ。
道路右側にある歩道がいかにも水路跡っぽく見えるのだが、地籍図や明治以降の古地図を確認しても水路敷としては認識されていない。この道は首都高大橋ジャンクションの西側で目黒川と分かれて菅刈公園の前からは西郷山通りとして目黒川左岸を並走し、中目黒公園付近でふたたび目黒川に合流しているのだが、「大江戸今昔めぐり」アプリで見ると山手通りから菅刈公園南側までは道路沿いに水路が描かれており、おそらくは江戸時代の古い水路跡だったのだろう。地図などではわからないが、歩道部分に側溝など水路があったのかもしれない。
また、山手通り東側にはここのほかにいくつか目黒村全図に描かれた水路があるのだが、現在の地割りとは一致しておらず痕跡はわからない。
道路右側にある歩道がいかにも水路跡っぽく見えるのだが、地籍図や明治以降の古地図を確認しても水路敷としては認識されていない。この道は首都高大橋ジャンクションの西側で目黒川と分かれて菅刈公園の前からは西郷山通りとして目黒川左岸を並走し、中目黒公園付近でふたたび目黒川に合流しているのだが、「大江戸今昔めぐり」アプリで見ると山手通りから菅刈公園南側までは道路沿いに水路が描かれており、おそらくは江戸時代の古い水路跡だったのだろう。地図などではわからないが、歩道部分に側溝など水路があったのかもしれない。
また、山手通り東側にはここのほかにいくつか目黒村全図に描かれた水路があるのだが、現在の地割りとは一致しておらず痕跡はわからない。

山手通りが本線と支線に分かれる交差点から本線を北にみたところ。
空川は写真手前に向かって流れてきていたようだが、区画整理や道路拡張で目黒川に合流する部分の流路はわからなくなっている。
この写真は2025/10/27撮影。
空川は写真手前に向かって流れてきていたようだが、区画整理や道路拡張で目黒川に合流する部分の流路はわからなくなっている。
この写真は2025/10/27撮影。

目黒川に戻って山手通りのひとつ上流側の東山橋から左岸側を見たところ。
写真奥で道路が左に曲がっているが、曲がった先あたりまでは目黒村全図の水路をなぞっているように見える。
ここからの写真は2025/10/23撮影。
写真奥で道路が左に曲がっているが、曲がった先あたりまでは目黒村全図の水路をなぞっているように見える。
ここからの写真は2025/10/23撮影。

さらにひとつ上流の氷川橋から首都高大橋ジャンクション脇の道路を見たところ。
左側の巨大なコロッセオのような建物(コロッセオをイメージしたそうだ)が首都高大橋ジャンクションで、高架線の首都高3号線から地下の中央環状線までは高低差が71mもあり、1周400mのループを2周して上下する構造になっている。
この場所はかつて玉電(東急多摩川線)の大橋車庫があった場所で、その後は東急バスの大橋営業所であった。
目黒村全図では現在の道路よりもやや下流側を水路が流れているように描かれているが、昭和5年(1930年)の目黒町全図では山手通りの本線から支線までこちらに向かって水路があり、東京時層地図アプリで昭和戦前期の地図を見ると氷川橋までこの道路脇を水路が流れているように描かれている。
昭和10年(1935年)の目黒区全図でもこの道路左側に水路があるように記載されているので、ここに水路があったと見て間違い無いだろう。
左側の巨大なコロッセオのような建物(コロッセオをイメージしたそうだ)が首都高大橋ジャンクションで、高架線の首都高3号線から地下の中央環状線までは高低差が71mもあり、1周400mのループを2周して上下する構造になっている。
この場所はかつて玉電(東急多摩川線)の大橋車庫があった場所で、その後は東急バスの大橋営業所であった。
目黒村全図では現在の道路よりもやや下流側を水路が流れているように描かれているが、昭和5年(1930年)の目黒町全図では山手通りの本線から支線までこちらに向かって水路があり、東京時層地図アプリで昭和戦前期の地図を見ると氷川橋までこの道路脇を水路が流れているように描かれている。
昭和10年(1935年)の目黒区全図でもこの道路左側に水路があるように記載されているので、ここに水路があったと見て間違い無いだろう。

道路を進んで山手通り支線から本線方向を見たところ。支線は写真左で国道246号玉川通りと大橋交差点で接続しており、アンダーパスで通り抜ける本線の側道として利用されている。
このあたりでは本線よりも支線の方がやや嵩上げされているようで、支線の向こうは下り坂になっている。
このあたりでは本線よりも支線の方がやや嵩上げされているようで、支線の向こうは下り坂になっている。

山手通り支線を北に進んで、本線との間にある旧流路跡。支線側は嵩上げされて行き止まりになっているが、本線側にはつながっている。
この写真は2025/10/27撮影。
この写真は2025/10/27撮影。

いったん玉川通りに出て大坂橋から新道を南に見たところ。
左側に見える半ループは山手通り内回りから玉川通り下り(三軒茶屋方向)へ向かう道で、その下に見える歩道のあたりを空川が流れていたらしい。また、左側からは大坂(旧大山街道)を下ってきた三田用水の大坂口分水が流れてきていた。この二つの流れはこのあたりで合流していたようにも見えるが、並走して目黒川に向かっていたようにも見える。
一方、右奥から下りてくる高架は山手通り本線の外回りが旧道を越える菅刈陸橋で、右奥に見える横断歩道がさきほどの水路跡だ。
目黒村全図の方では、一つ手前の脇道の方を水路が流れていたように描かれている。
ここからの写真は2025/6/28撮影。
左側に見える半ループは山手通り内回りから玉川通り下り(三軒茶屋方向)へ向かう道で、その下に見える歩道のあたりを空川が流れていたらしい。また、左側からは大坂(旧大山街道)を下ってきた三田用水の大坂口分水が流れてきていた。この二つの流れはこのあたりで合流していたようにも見えるが、並走して目黒川に向かっていたようにも見える。
一方、右奥から下りてくる高架は山手通り本線の外回りが旧道を越える菅刈陸橋で、右奥に見える横断歩道がさきほどの水路跡だ。
目黒村全図の方では、一つ手前の脇道の方を水路が流れていたように描かれている。
ここからの写真は2025/6/28撮影。

大坂橋の北側、山手通り外回り(中野坂上方向)から玉川通り上り(渋谷方向)へ接続する半ループの西側高台には天正年間(1573〜92年)に創建された上目黒氷川神社がある。

山手通りを挟んで東側、玉川通りの北側を上って行く急坂は旧大山街道で玉川通りの旧道にあたるが、ここに三田用水の大坂口分水が流れていたという。
この写真は2025/10/27撮影。
この写真は2025/10/27撮影。

一方西側の半ループ入口から北を見ると、山手通り歩道の左(西)側にある細長いビルの左に空川の水路跡が残っていた。
ここからの写真は2025/6/28撮影。
ここからの写真は2025/6/28撮影。

水路跡はすぐにまた山手通り歩道脇に戻ってくるが、ここから上流は左の道路ではなく、歩道側の段差下あたりに水路があったようだ。

左側、崖下の道路を進んで右側の路地を見たところ。
奥に階段があるが、古地図と照らし合わせると階段手前あたりを南北に水路が横切っていたように見え、左側で東側(写真奥)から来る空川本流と西側(写真手前)から来る支流が合流していたように見える。
奥に階段があるが、古地図と照らし合わせると階段手前あたりを南北に水路が横切っていたように見え、左側で東側(写真奥)から来る空川本流と西側(写真手前)から来る支流が合流していたように見える。

崖下の道の方を上流方向に進むとすぐに、西側に向かって食い込む支谷がある。
階段が崖上との段差の高さを物語っているが、東京時層地図ではもう少し谷が深く、階段のあたりに池があったように描かれている。
階段が崖上との段差の高さを物語っているが、東京時層地図ではもう少し谷が深く、階段のあたりに池があったように描かれている。

そこから上流方向では西側の崖が後退しており、右のマンション奥あたりから向こうは支流の水路が道路沿って流れていたようだ。

そのまま上流方向へ進んでいくと、淡島通りの新遠江橋の下をくぐるところに出た。このあたりの地籍図はかなり複雑で支流がどこで東側の本流と分かれていたのかはよくわからないのだが、すくなくとも本流はもう少し東(右)を流れていた。

さて、東を流れる本流の方は山手通りの下になってしまって流路が失われているのだが、北へ進んでいくと松見坂交差点の手前で西側からぶつかってくる水路敷が残っている。
ここからの写真は2025/10/23撮影。
ここからの写真は2025/10/23撮影。

水路敷側から見たところ。嵩上げされた山手通りの擁壁で行き止まりになっており、ここから下流の水路は失われている。

振り返って上流側。山手通りから下りてくる道路を挟んで淡島通り方向まで水路敷が残っている。突き当たりのところに旧遠江橋があり、空川は北側から流れてきていた。

突き当たりを右に曲がると松見坂地蔵がある。松見坂は山手通りの松見坂交差点から新遠江橋を渡って淡島通りを上って行く坂で、古くはこの地蔵の前を通って川縁へ下りてから西に上っていたらしい。
地蔵尊は写真右の祠に納められており、正面には「明治三十二年六月成」と刻まれた旧遠江橋の親柱が残っている。
地蔵尊は写真右の祠に納められており、正面には「明治三十二年六月成」と刻まれた旧遠江橋の親柱が残っている。

西側のアンダーパスをくぐって淡島通りの北側へ。
空川本流は写真奥に見える道路から東寄りに流れていたようだが、現在は北側から淡島通りに上る坂道があって水路の位置はよくわからない。
また、写真奥の住宅右側には旧山手通りの神泉駅入口交差点(東側は裏渋谷通り)のすぐ西側を流れていた三田用水からの駒場口分水が合流していたと思われるが、こちら側からはその痕跡を見ることはできない。
水路脇には「日之出湯」という銭湯があったことが昭和10年(1935年)の目黒区全図で記録されている。
この写真は2025/6/28撮影。
空川本流は写真奥に見える道路から東寄りに流れていたようだが、現在は北側から淡島通りに上る坂道があって水路の位置はよくわからない。
また、写真奥の住宅右側には旧山手通りの神泉駅入口交差点(東側は裏渋谷通り)のすぐ西側を流れていた三田用水からの駒場口分水が合流していたと思われるが、こちら側からはその痕跡を見ることはできない。
水路脇には「日之出湯」という銭湯があったことが昭和10年(1935年)の目黒区全図で記録されている。
この写真は2025/6/28撮影。

一方、松見坂地蔵から淡島通り越しに北側を見たところ。写真右側を南北に通る山手通りの擁壁下に道路が見えるが、明治44年目黒村全図ではこちらの方に空川の流れがあったようにも見える(昭和5年の目黒町全図ではアンダーパス寄りに水路がある)。
この写真は2025/10/23撮影。
この写真は2025/10/23撮影。

松見坂交差点の東側に渡って淡島通りのひとつ北側にある道が三田用水の駒場口分水跡と言われている。ただし、明治24年の二万分の一地図「内藤新宿」では道路よりもやや南側に水路が描かれており、元はそちらを通っていたようだ。
ここからの写真は2025/10/27撮影。
ここからの写真は2025/10/27撮影。

前の写真右手前の植え込みには文化9年(1812年)に建立された石橋供養塔がある。
淡島通りの旧道であるこの道(滝坂道)は道玄坂から裏渋谷通りを通って淡島通りへ抜け調布市の京王線北側にある滝坂まで向かう古道で、石橋は坂上の三田用水を跨ぐ場所にあったはずが昭和47年(1972年)にこのあたりに埋まっていたのが発見されたのだという。
淡島通りの旧道であるこの道(滝坂道)は道玄坂から裏渋谷通りを通って淡島通りへ抜け調布市の京王線北側にある滝坂まで向かう古道で、石橋は坂上の三田用水を跨ぐ場所にあったはずが昭和47年(1972年)にこのあたりに埋まっていたのが発見されたのだという。

松見坂の西側に戻って山手通り擁壁下の道を北へ向かうと、駒場口分水が下りてきたところに水路敷の入口があった。
ここからの写真は2025/10/23撮影。
ここからの写真は2025/10/23撮影。

フェンスの向こうを覗き込んでみると、北に向かって水路敷(地籍図では長狭物)が下って行くのがわかる。
地籍図上の長狭物は写真奥の住宅手前で西に曲がっており、分水はそこで西側を流れる空川に合流していた。写真奥の方にある水路跡は空川の東側を流れる支流の水路跡(向こうから流れてきて、分水路に合流して空川本流へ向かっていたらしい)だが、地籍図上はところどころ私有地になっているらしく歩いて入れる場所はないようだ。この先上流側はあとで見に行くことにしよう。
地籍図上の長狭物は写真奥の住宅手前で西に曲がっており、分水はそこで西側を流れる空川に合流していた。写真奥の方にある水路跡は空川の東側を流れる支流の水路跡(向こうから流れてきて、分水路に合流して空川本流へ向かっていたらしい)だが、地籍図上はところどころ私有地になっているらしく歩いて入れる場所はないようだ。この先上流側はあとで見に行くことにしよう。

ここからは新遠江橋北側の空川本流へ戻って北へ。昭和10年の目黒区全図では、道路左側に水路が描かれている。
道路は徐々に西向きにカーブして行く。
ここからの写真は2025/6/28撮影。
道路は徐々に西向きにカーブして行く。
ここからの写真は2025/6/28撮影。

上流に向かって行くと、路肩にクランクを示す標識があった。

そこからすぐ、写真奥で道路がクランク状に曲がって行くところで、水路敷(地籍図上は道)の方は真っ直ぐ写真奥から出てくる。

水路敷はカクカクと曲がりながら進んでいく。

右から道路が突き当たってくるが、突き当たり向きに「スピード落とせ」の垂れ幕があるのは何故だろう(写真右=北には交差点があるにはある)。

水路敷左(南)側から崖が迫ってきた。階段の上にアパートがある。

左の崖側もフェンスで囲まれている場所を通る。

駒場一丁目防災緑地の中に崖上の住宅地へ上る階段があった。

その先で空川本流の水路敷はフェンスに阻まれて閉塞しており、西へ向かうことはできない。
地図上はこのまま崖下を西に向かって水路敷が続いている。
地図上はこのまま崖下を西に向かって水路敷が続いている。

ここでいったん北側の支流を見に行ってみよう。山手通り西側から北へ向かう水路敷は徐々に西へ向きを変えながら、1ブロック先の本流と支流をつなぐ路地で下流方向に残っているのを見ることができる。地籍図では写真手前あたりだけが長狭物として記載されており、奥は私有地になっているようだ。
上流方向は私有地になっていて水路敷としては残っていない。
ここからの写真は2025/10/23撮影。
上流方向は私有地になっていて水路敷としては残っていない。
ここからの写真は2025/10/23撮影。

さらにひとつ上流側の路地には、上流方向に向かって封鎖された水路敷(地籍図上は長狭物)が残っていた。

そこからしばらく水路敷が見られる場所はないので、本流側にあったクランクに本流の水路敷が出てくるところから右を向いて支流方向を見たところ。
この道路も明治44年(1911年)の目黒村前図では水路として描かれている。そして、わかりにくいが写真奥に支流の水路敷入口がある。
この道路も明治44年(1911年)の目黒村前図では水路として描かれている。そして、わかりにくいが写真奥に支流の水路敷入口がある。

前の写真奥(北)へ進んで車止めとフェンスで閉塞している水路敷を下流方向に見たところ。

水路敷の入口から振り返って上流方向。写真奥に見える井の頭線の築堤に阻まれていったん水路跡は消えている。
支流の方はここへ井の頭線の北側にある東大駒場キャンパス東端の駒場池(一二郎池)を水源としている。
支流の方はここへ井の頭線の北側にある東大駒場キャンパス東端の駒場池(一二郎池)を水源としている。

井の頭線北側に残っている無番地の水路跡。写真奥の延長線上に駒場池があるが、途中は私有地になっていて通り抜けることはできない。

ところで空川本流にあった「スピード落とせ」の垂れ幕から北向きに見た道路。目黒村全図ではこちらにも水路があった。
ここからの写真は2025/6/28撮影。
ここからの写真は2025/6/28撮影。

水路跡の上を井の頭線の架道橋が越えて行く。

北側で道路が突き当たっているところから未舗装の路地があるが、これが水路敷(地籍図では長狭物)の出口。
こちらも奥では私有地になっていて水路の跡は残っていない。
こちらも奥では私有地になっていて水路の跡は残っていない。

西側の道路から駒場池にぶつかる谷頭まで行ったところ。写真奥の木立が東大駒場キャンパスでその右側あたりに駒場池があるはずだが、木々に囲まれて敷地の外からは池を見ることはできない。
また、写真右側は先ほどの東西両方の流れに分かれて行く谷頭になっているが、昭和5年(1930年)の目黒町全図ではここにも池が描かれている。
駒場池、ないし一ニ郎池は通称で正式な名前はないそうだが、東大本郷キャンパスにある三四郎池にちなんで一二郎池と呼ばれているそうで、小説「三四郎」のヒロインの名前から「美彌子池」という別名もあるという。
(参考:「一二郎池ビオトープ化案」環境三四郎・水プロジェクト, 2003)
また、「一二浪池」と呼んでこの池を一人で見に行くと留年するという言い伝えがあるのだとか。
池の北端には湧水があり、空川の水源のひとつとなっていた。
また、写真右側は先ほどの東西両方の流れに分かれて行く谷頭になっているが、昭和5年(1930年)の目黒町全図ではここにも池が描かれている。
駒場池、ないし一ニ郎池は通称で正式な名前はないそうだが、東大本郷キャンパスにある三四郎池にちなんで一二郎池と呼ばれているそうで、小説「三四郎」のヒロインの名前から「美彌子池」という別名もあるという。
(参考:「一二郎池ビオトープ化案」環境三四郎・水プロジェクト, 2003)
また、「一二浪池」と呼んでこの池を一人で見に行くと留年するという言い伝えがあるのだとか。
池の北端には湧水があり、空川の水源のひとつとなっていた。

さて、本流の方は封鎖されていた水路敷の西側に階段があるのに入れない入口があるのを見つけた。

水路敷の入口を南側から見たところ。道路右側の歩道部分が水路敷の上流側になっている。
写真奥に見える黄色い通学路の標識の前、白い車がいるあたりで左(西)から水路敷(地籍図上も水路)が出てきているのだが、通行はできない。
写真奥に見える黄色い通学路の標識の前、白い車がいるあたりで左(西)から水路敷(地籍図上も水路)が出てきているのだが、通行はできない。

途中、水路敷に突き当たる道路から水路敷を上流方向に見たところ。崖下にそこそこ幅のある水路敷が残っている。

西側に回って水路敷の入口。車止めがあり、道路として使用することも考えられていたのかもしれない。

振り返って上流側。1ブロックだけ通行可能な道になっているが、すぐにまたフェンスで封鎖されている。
ここから上流も地籍図では水路として描かれている。
ここから上流も地籍図では水路として描かれている。

大きく西側に迂回して上流側の水路敷入口。フェンスはないが立入禁止の標識が置かれている。

そこから上流側はいったん地籍図では水路敷を追えなくなるが、すぐに駒場東大前駅西口に出る。
ここからは井の頭線の南側にある自転車駐輪場のあたりが水路(地籍図では長狭物)だったようだ。
ここからは井の頭線の南側にある自転車駐輪場のあたりが水路(地籍図では長狭物)だったようだ。

廃踏切を探せ(駒場東大前1号〜4号踏切)で紹介したケルネル田んぼ。
空川本流の最上流部は駒場野公園にある池からケルネル田んぼの南側を通って駒場東大前の駅南側に流れていた。
この写真は2024/1/23撮影。
空川本流の最上流部は駒場野公園にある池からケルネル田んぼの南側を通って駒場東大前の駅南側に流れていた。
この写真は2024/1/23撮影。

空川の水源となっていた駒場野公園の池。谷筋自体はここから井の頭線の北側、駒場公園西側の東大生産技術研究所あたりまで入り込んでいるようだ。
この写真は2024/1/19撮影。
この写真は2024/1/19撮影。

最後に東側に戻って井の頭線の架道橋南側へ本流の北側を並走して流れる支流を見ておこう。
西に向かう道路が水路の跡と考えられる。
ここからの写真は2025/10/23撮影。
西に向かう道路が水路の跡と考えられる。
ここからの写真は2025/10/23撮影。

十字路になっている場所。駒場東大前駅に向かう道路は右で、正面の道路は空川本流と支流の間を西へ向かっている(一部は私道)が、水路敷はというと大変わかりにくいが写真正面にある電柱の脇、写真奥の木立に向かって行く細い通路のようなものがそれ。奥は民家の敷地として利用されているようで入って行くのは難しい。

電柱の後ろに停まっているバイクの横から眺めたところ。たしかに水路敷のような舗装された細道(地籍図では長狭物)がある。

西側を南北に通る道を南側から見たところ。写真中央に水路跡の石橋が見える。

石橋から西側はなんとか通行が可能なようだ。

西側でふたたび道路に出る。

右に曲がってすぐ北側の道路を西に見たところ。ここから上流は道路左(南)側に地籍図上の水路敷が残っている。

東大前商店街を西へ進んでいく。道路は井の頭線にぶつかって西向きに曲がるが、支流の水路はそのまま井の頭線の下をくぐっていたようだ。

駒場東大前駅ホーム西端付近から北側の東大駒場キャンパスを見たところ。
支流の水源は写真右側の木立の向こうあたりにある谷間にあったようだ。地形としてはキャンパス北側の野球場付近が谷頭となっている。
支流の水源は写真右側の木立の向こうあたりにある谷間にあったようだ。地形としてはキャンパス北側の野球場付近が谷頭となっている。