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北沢川とその支流(森巖寺川)

OpenStreetMapで代沢橋から下北沢駅付近を見る。
森巖寺(しんがんじ)川は笹塚駅南方から始まって茶沢通りの東側を並走して代沢橋で北沢川に合流する支流で、現在も大半の場所で水路の跡が残っていおり地籍図上でも水路敷として扱われている。
途中で西側から合流しているだいだらぼっち川については機会を分けて見ていくとして、今回は代沢橋から森巖寺川の上流端まで行ってみる。
森巖寺(しんがんじ)川は笹塚駅南方から始まって茶沢通りの東側を並走して代沢橋で北沢川に合流する支流で、現在も大半の場所で水路の跡が残っていおり地籍図上でも水路敷として扱われている。
途中で西側から合流しているだいだらぼっち川については機会を分けて見ていくとして、今回は代沢橋から森巖寺川の上流端まで行ってみる。

代沢橋から代沢小学校脇の道路を北に見たところ。
地籍図では次の交差点まで道路右(東)側に水路敷が描かれている。古くは東側に大きく蛇行していたようだが、宅地化されて蛇行跡の痕跡は残っていない。
ここからの写真は2025/7/9撮影。
地籍図では次の交差点まで道路右(東)側に水路敷が描かれている。古くは東側に大きく蛇行していたようだが、宅地化されて蛇行跡の痕跡は残っていない。
ここからの写真は2025/7/9撮影。

次の交差点で水路敷は斜めに横断して道路左(西)側に移っているが、見た目は左右とも同じように歩道になっていてよくわからない。

北へ進んで突き当たりを少し右(東)に行ったところに北沢八幡神社がある。
文明年間(1469〜87年)に世田谷城主八代吉良頼康が勧請したと伝わっている。
文明年間(1469〜87年)に世田谷城主八代吉良頼康が勧請したと伝わっている。

戻って突き当たりのところにあるのが浄土宗森巖寺。
慶長13年(1608年)に徳川家康の次男、結城秀康の位牌所として建立されたという。
慶長13年(1608年)に徳川家康の次男、結城秀康の位牌所として建立されたという。

森巖寺西側に回り込むように水路敷が続いている。

淡島幼稚園の脇からは明らかに水路敷らしい遊歩道になる。

水路敷の右(東)側がやや高台になっているのがわかる。

車止めのある交差点。地籍図ではここに左(西)からだいだらぼっち川が合流している。

そのまままっすぐ進むと右に代沢草の丘広場があり、その先では右側から崖が迫ってくるが写真奥の木立あたりに古いだいだらぼっち川の合流があったようだ。

擁壁はあとから造られたもののようだが、森巖寺川が崖下を流れていたのは確かだろう。

駐車場の下で再び車止めのある交差点に出る。

地形図を見ると交差点の右(東)に池ノ上駅方向から下りてくる谷筋がある。

まっすぐ進むと小綺麗に整備された遊歩道が続く。

遊歩道は次の道路に突き当たるところで終わっていて、そこから井の頭線までは自転車駐車場として利用されている。

道路に出たところに建つめったやたらとハデな建物はスープカレーのレストランだそうだ。
この写真は2025/7/18撮影。
この写真は2025/7/18撮影。

OpenStreetMapで井の頭線から森巖寺川の上流端までを見る。
途中に三田用水からの分水が合流しているが、上流端では玉川上水や三田用水とはつながっていなかったようだ。
途中に三田用水からの分水が合流しているが、上流端では玉川上水や三田用水とはつながっていなかったようだ。

井の頭線の北側に回って下流方向を見たところ。こちらはフェンスで封鎖されて入ることはできない。
ここからの写真は2025/7/9撮影。
ここからの写真は2025/7/9撮影。

振り返って上流側は再び自転車駐車場になっている。

自転車駐車場を通り抜けて北側、左から茶沢通りが近づいてくるところに出る。写真正面に見えるのは鈴なり横丁の建物。

下北沢の鈴なり横丁といえばザ・スズナリ。本多劇場グループの小劇場で、1981年にアパートだった下北沢荘の一部を改装して造られたという。
大正時代から戦前の地図を見ると鈴なり横丁のやや北側には池があり、このあたりは森巖寺川に面した低湿地だったのだろう。
(参考:「地図でみる世田谷」世田谷区立郷土資料館, 2017)
大正時代から戦前の地図を見ると鈴なり横丁のやや北側には池があり、このあたりは森巖寺川に面した低湿地だったのだろう。
(参考:「地図でみる世田谷」世田谷区立郷土資料館, 2017)

鈴なり横丁の前から小田急線方向を見たところ。左の道路が茶沢通りで奥に旧東北沢4号踏切が見えるが、茶沢通り右側の歩道には地籍図に水路敷が描かれていて、手前で道路を横断するコンクリート舗装の部分が水路敷と思われる。
森巖寺川はここで左右2つの流れが合流しており、右(東)側流路は右の道路から流れてきていた。
茶沢通りから写真左方向、下北沢駅に向かって補助54号線の建設が計画されており、下北沢駅前の世田谷区が建設を進めている区画街路10号線と接続して駅前ロータリーを形成する予定となっている。
森巖寺川はここで左右2つの流れが合流しており、右(東)側流路は右の道路から流れてきていた。
茶沢通りから写真左方向、下北沢駅に向かって補助54号線の建設が計画されており、下北沢駅前の世田谷区が建設を進めている区画街路10号線と接続して駅前ロータリーを形成する予定となっている。

茶沢通りの水路敷を旧東北沢4号踏切手前まで行ってみる。森巖寺川の西側流路はここまで小田急線の線路部分を右(東)から流れてきていたようだ。
一方、踏切の向こうに続く下北沢一番街の商店街が谷筋になっているので寄り道してみよう。
一方、踏切の向こうに続く下北沢一番街の商店街が谷筋になっているので寄り道してみよう。

古着屋などの小洒落た店舗を眺めながら緩やかに蛇行する下北沢一番街。水路敷としての記録はないが、地形図では西側に大きく食い込む谷筋になっている。

谷頭には商店街の大きなゲートが建っている。

一方、森巖寺川の東側流路はザ・スズナリの前を抜けて池跡を回り込むようにやや右へ曲がっていく。
写真奥には、砂利舗装の水路敷が見える。
写真奥には、砂利舗装の水路敷が見える。

砂利舗装の先で水路敷は左(北)に曲がり、小田急線に突き当たる。

西側流路が小田急線北側に現れる突き当たりを上流側から見たところ。

振り返って上流側を見る。茶沢通りのひとつ東側を並走する裏道が西側流路の跡。写真奥の交差点から先は地籍図で水路敷となっている。

東側流路はその交差点を右に行ったところにある階段の先から復活。2本の流路はクネクネと曲がりながら並走している。

東側流路は道の中央に排水路がある。

西側流路の途中に東側から斜めに合流してくる水路の跡がある。地籍図では東側からつながっているのだが、実際には閉塞していて東側の分岐点はよくわからない。

東側流路が車止めのある交差点を越える。道路中央の排水路はここでいったん途切れる。

しかし、すぐに縞模様の舗装部分に復活。写真奥では水路敷中央が植え込みとなる。

いったん植え込みが道路左側に移るが…

すぐに左に空間ができる。そのまま植え込みの脇を進んでいくと、写真奥に右折してくる茶沢通りとの交差点がある。

戻って西側流路。こちらの方が道幅が狭く、クネクネと曲がっている。地籍図でも西側は道路全体が水路敷になっていて、道幅を広げていないようだ。

東側は植え込みになっているあたりの交差点から先は若干道幅が広くなる。
ところでこの交差点、写真ではまったくそれらしさはないが地籍図では写真左(西)に水路敷が分岐しているのだが、すぐに南に向きを変えて道路端で終わっている。地籍図には住宅地のなかに下流方向に伸びる水路跡らしき区画があるが、水路敷としては扱われておらず廃水路であるようだ。
ところでこの交差点、写真ではまったくそれらしさはないが地籍図では写真左(西)に水路敷が分岐しているのだが、すぐに南に向きを変えて道路端で終わっている。地籍図には住宅地のなかに下流方向に伸びる水路跡らしき区画があるが、水路敷としては扱われておらず廃水路であるようだ。

茶沢通りと森巖寺川東西流路の交差点を茶沢通り西側から見たところ。
地籍図では両方の流路の間にある左側の歩道だけでなく、右側にも東西をつなぐ水路敷がある。
地籍図では両方の流路の間にある左側の歩道だけでなく、右側にも東西をつなぐ水路敷がある。

東側流路を北へ向かう。道路やや左寄りに白い車止めが立っているが、地籍図では道路中央に水路敷が描かれている。
写真奥に見えるのは突き当たりではなく、北から来る流路に右から支流が合流している場所になる。
写真奥に見えるのは突き当たりではなく、北から来る流路に右から支流が合流している場所になる。

先に支流の方を見ておこう。途中水路敷が失われている部分があるが、この支流の上流端は三田用水で元は森巖寺川への分水路だったのだろう。

まっすぐ進んでいくと道路が突き当たるところで右側に柵で囲まれた一角がある。地籍図ではこの部分が水路敷になっている。

北側に下がって路肩の水路敷を見たところ。写真奥に見える壁のところで終わっているのだが、そこから左(東北方向)に水路の跡はなく痕跡は失われている。

水路跡の左側を並走する道路を進み、上流側に回り込んで水路脇にあった崖が見えるところまで来た。
写真奥の突き当たりから右側では水路跡は失われているが、左の上流側には通れる道がある。
写真奥の突き当たりから右側では水路跡は失われているが、左の上流側には通れる道がある。

突き当たりを左に曲がって擁壁の下を上流へ。写真奥には車止めが見え、その先にも水路敷が続いている。

車止めの先、右側の擁壁でかなり高低差があることがわかる。

水路敷は上り坂となって高低差がなくなっていき、写真奥で井の頭通りに出て上流端となる。ちょうどそこで三田用水が井の頭通りを越えており、分水口があったと思われる。

合流点まで戻って東側流路を再び上流へ向かう。

途中で自動車が通れない道幅になった。

なんだか少し背が低い車止めに出会う。

あおぞら公園の脇で急に広い道路になるが、公園側がセットバックしているためで地籍図上の水路敷は左寄りにある。

ここでいったん茶沢通りまで戻って西側流路を北へ。こちらは西側がやや高くなっているのがわかる。

西側に大谷石の擁壁が現れた。

あおぞら公園に向かう丁字路まで来た。

あおぞら公園から東西流路の間にある北沢さくら公園を下流方向寄りに見たところ。
この桜はワシントンD.C.のポトマック河畔の桜(1912年に日本から贈られた)から分けられて里帰りしたものだそうだ。
この桜はワシントンD.C.のポトマック河畔の桜(1912年に日本から贈られた)から分けられて里帰りしたものだそうだ。

おしゃれな街灯が並んでいる東側流路。

西側流路は特に飾り気のないクネクネ道。

東側は途中から遊歩道になっている。

ところがすぐにこちらも飾り気のないアスファルト舗装の水路敷になってしまう。

水路敷は井の頭通りに上書きされて失われているが、地籍図では井の頭通り北側の北沢中学校内に残っている。

西側流路もクネクネ曲がりながら井の頭通りへ向かう。

こちらも井の頭通りにぶつかって、北沢中学校の校庭部分では地籍図にしか水路が残っていない。

井の頭通りを渡って北沢中学校西側の道路。全国Q地図の東京都3千分の1地図(1961〜1962年)を見ると西側から支流が合流してくるのがわかるのだが、道路に合流するあたりに痕跡は見当たらない。
写真は北側から北沢中学校脇を見たところ。
ここからの写真は2026/3/5撮影。
写真は北側から北沢中学校脇を見たところ。
ここからの写真は2026/3/5撮影。

支流の跡を探して北側の道路から駐車場奥に見える段差を眺めたところ。地図ではその段差手前に水路があったようだ。

井の頭通り南側から北沢中学校バス停方向を見たところ。住宅の間に水路があったようだが、それらしい痕跡はない。

井の頭通り北側から支流の上流方向を見る。支流は動物病院が入っているビルの右隣にあるマンション敷地内を流れていたようだが、地籍図上にも痕跡はない。

マンション南側にある大原さんかく公園の東側にある植え込み付近に支流が流れていた。

大原さんかく公園の南側には、道路を横切る蓋暗渠が残っていた。その先(写真右)は住宅となり痕跡は残されていない。

一方、森巖寺川本流は北沢中学校の北側へ。校門の前に北から西側流路が流れ込んでおり、写真奥には東側流路とそこから手前に来る東西をつなぐ流れの跡(地籍図で水路敷になっている)も残っている。
ここからの写真は2025/7/9撮影。
ここからの写真は2025/7/9撮影。

東側はいかにも水路敷らしい細道が北からまっすぐ伸びてきている。

あまり人通りはないようで藪化が進んできている。

車止めを越えて上流端へ向かう水路敷。

西側は北沢5丁目児童遊園の前に向かって来る道路になっている。地籍図では道路右側に水路敷があるが、見た目ではわからない。

写真ではわかりにくいが、森巖寺川部分が浅い谷になっている。

西側から上流端へ。森巖寺川の上流端は地籍図を見ると写真右奥の住宅がある一角を取り囲むように水路敷があり、古い空中写真を見てもこの区画は農地ではっきりとした湧水池などの水源は確認できない。

周回する水路跡の南側を見る。東側流路は写真奥に見える丁字路で分かれて南へ向かっている。

周回北側の道路。

北側から周回する水路敷の谷頭部分を見たところ。写真奥は上り坂で、写真手前も上っておりここが谷頭なのは間違いないようだ。
というわけで今回はここまで。
というわけで今回はここまで。