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田柄用水(下練馬宿/田柄用水下流部分)

OpenStreetMapで田柄川緑道の錦町付近を見る。
田柄川と並走する田柄用水の流路については諸説あって下流へ行くほどよくわからないのだが、練馬区情報公開室の調査データ(「練馬区水辺ふれあい計画2001-2010」練馬区環境まちづくり事業本部環境清掃部環境保全課、2007/10より)を見ると川越街道あたりで田柄川と合流していたように描かれている。現地へ行くと、もう少し南側まで田柄川の東側に谷筋がみられるので、今回はそこから上流へ向かって進んでみよう。
田柄川と並走する田柄用水の流路については諸説あって下流へ行くほどよくわからないのだが、練馬区情報公開室の調査データ(「練馬区水辺ふれあい計画2001-2010」練馬区環境まちづくり事業本部環境清掃部環境保全課、2007/10より)を見ると川越街道あたりで田柄川と合流していたように描かれている。現地へ行くと、もう少し南側まで田柄川の東側に谷筋がみられるので、今回はそこから上流へ向かって進んでみよう。

金乘橋から東側を見たところ。都営錦一丁目第2アパートの東側に微妙に谷間がある。
ここからの写真は2019/9/22撮影。
ここからの写真は2019/9/22撮影。

そちらを進んで行くと、途中東に向かっていく水路敷を発見。

水路敷は一つ東側の道路を跨いだ先までつながっていた。

北町橋から東側を見たところ。谷筋というよりは、実際には田柄川の蛇行跡というべき低地が広がっている。

川越街道にでたところ。高徳橋の東側、日産とコスモ石油の間へ向かうが、横断歩道がないので大回りせざるを得ない。

北へ進んで北町一丁目公園の木立(写真中央右)を西側から見たところ。公園のあたりが谷間になっているのがわかる。ここから北側は道路がなく、谷筋を追うことが難しい。古地図を見る限り谷筋は写真左側、啓志線跡付近で西へ曲がって下練馬宿方向へ向かっていたようだ。

北西側に回り込んで、道路の突き当たりにある造成中の土地を西側から見たところ。写真左奥のマンションや住宅は高い位置にあり、この辺りが谷であることがうかがえる。

田柄川緑道から谷筋に向かって、取り残されたような形で水路敷かもしれない細道がある。

その少し東側、旧川越街道へ向かって上っていく道がある。この道路、明治時代の古地図にも描かれている古道で、ここに旧川越街道から田柄川に向かって降りてくる水路もあったとされる。

ジグザクに坂道を上っていく。100年以上前からこの道筋は変わっていないようだ。

そこそこの斜度で旧川越街道へ向かって上っていく。

旧川越街道に上ってきたところにある風情のある商家。Google Mapには松本食料品店とある。

旧川越街道に出て東武練馬方向を見たところ。ここから上流側は田柄用水が旧川越街道に沿ってながれていたとされている。

国土地理院Webサイトから昭和38年の空中写真(国土地理院撮影)。このころはまだ東武啓志線の廃止跡が残っているのがわかる。

内田屋呉服店前にあった古い看板。環状八号線の東側は下練馬宿のうち下宿と呼ばれた地域になる。

旧川越街道と環状八号線の交差点まで来た。実際には環八は地下を走っているので、側道との交差点ということになる。

環八を跨ぐところに置かれている大山道道標と東高野山道標。もとは環八ができる前の富士街道起点の川越側に置かれていたものが移設されている。

ちょっと寄り道して、旧富士街道を南下して棚橋跡の南側にある地蔵尊を見にいく。

さて、改めて環八を越えて旧川越街道を西へ向かっていく。
この写真は2018/2/10撮影。この近辺の水路敷については、西本村の支流の項目を見ていただきたい。
この写真は2018/2/10撮影。この近辺の水路敷については、西本村の支流の項目を見ていただきたい。

西本村の支流の分岐点で北側を見ると、なにやら怪しい路地らしきものがある。
ここからの写真は2019/12/8撮影。
ここからの写真は2019/12/8撮影。

北側に回り込んでみると路地は行き止まりになっており、崖下に空き地が広がっている。これが水路敷でここに湧き水があったのか、練馬区情報公開室の資料では崖上の道の方が水路敷とされており、謎が多い空間ではある。

浅間神社(富士嶽神社)の境内にある下練馬の富士塚(練馬区指定有形民俗文化財)。標高は富士山のちょうど1/100つなる37.76mあり、これが作られた頃は頂上から富士山がよく見えたことだろう。

OpenStreetMapで東武練馬駅近辺の地図。

東武練馬駅入り口にある北町観音堂。もっとも古い北町聖観音座像は天和2年(1682年)造立という。

下練馬宿の本陣跡は緑地になっていた。写真奥に見えるのは下練馬献上大根碑で、五代将軍綱吉が逗留していた際に栽培させた大根の出来が良く、幕府に献上したことに由来するという。

旧川越街道をさらに西へ。このあたりから徐々に西に向かって道が降っているような気がするのだが、はたして田柄用水はどうやってながれていたのだろうか。

下練馬宿は西側から上宿、中宿、下宿に分かれていたそうで、このあたりは上宿にあたるという。

OpenStreetMapで新大宮バイパス近辺の地図。

練馬区情報公開室の資料では、写真の行き止まりになっている道が水路敷とされている。谷筋に向かって降っているので、田柄用水から水を分けていたのだろうか。

店舗としては営業している感じのない金網製作所。

東上42号踏切のところで、田柄用水は旧川越街道と別れ南へ向きを変える。

道路が左に折れるところ、直進側は一見民家の敷地のように見えるが、写真奥に車止めが見えている。

まっすぐ進んで行くと、工事現場脇に水路敷が残っていた。

水路敷は再び道路へ。

そのまま川越街道まで道路が続いているが、写真奥のトラックが止まっているところで川越街道に断ち切られてしまっている。もともとは川越街道の南側まで道路がつながっていたのだが、新大宮バイパス工事でこうなったらしい。

川越街道を越えて南へ。さきほどの道路の続きがあるが、放射35号線で再び断ち切られている。
ところで、このあたりは明らかに上流側の方が標高が低くなっているのだが。
ところで、このあたりは明らかに上流側の方が標高が低くなっているのだが。

放射35号線の西側に見える封鎖された道路が元の道。この道は崖下にある。このあたり練馬区情報公開室の資料では水路敷とされているのだが、古地図では水路は確認できない。

放射35号線から新大宮バイパス方向を見る。このときは2019/3に交通開放という話があった時期だと思うが、小学校の通学路に関する安全対策が問題となり、開放は1年遅れの2020/3/30となった。

さて、旧道は封鎖されていて通れないので南側へ回り込んで大松屋というタバコ店の前に出たところ。練馬区資料での水路敷は写真右奥へ向かっていることになっている。
ちなみに大松というのは下練馬村の小字(小名)で、さきほど通った放射35号線のあたりには田柄谷という小字があったという。
ちなみに大松というのは下練馬村の小字(小名)で、さきほど通った放射35号線のあたりには田柄谷という小字があったという。

タバコ店から西へ向かう。すぐに大松氷川神社入口の看板に出会った。

少し北に向かったところにあるのが大松氷川神社。

ここにも練馬区指定有形民俗文化財の氷川神社富士塚がある。

元に戻ってくねくねと西へ向かう道を進んで行く。ここに水路敷があったか定かではないが、田柄川の蛇行による旧流路と考えても不思議ではないだろう。

都道442号北町豊玉線との交差点に出た。古地図ではこの交差点の向こうには水路が描かれており、交差点で南(写真左)へ曲がって田柄川に合流している形になっている。今回の探索はここまでとしよう。

おまけで北町観音堂の脇に置かれていた青面金剛庚申塔などの石仏群。