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桃園川の水路敷群(小淀川)
地図
OpenStreetMapで小淀川の水路跡を見る。
小淀川は神田川左岸側を並走している桃園川の支流で、おそらくは神田川の豊水橋付近で旧神田上水を分水し、付近の農地に水を供給していたものと思われる。
桃園川南側の一帯は中野町字小淀という地名であった(現在は中央一丁目)が、国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の都市計画東京地方委員会常務委員会議事速記録 第5號などに記載されている地図に「伏見宮別邸」なる記載がある。同所蔵の中野町誌によれば、ここには江戸時代天保年間に麹町の豪商伊勢八こと加太八兵衛が成趣園を拓き、明治維新後に剣豪山岡鉄舟の道場となったが明治19年に伏見宮へ献上されたという。
昭和22年
伏見宮別邸には大きな池があり、国土地理院Webサイトの昭和22年空中写真(米軍撮影)にも池が残っているのが写っている。
田替橋
桃園川の田替橋跡から上流方向を見たところ。なかのデータマップでは写真左側のマンション奥に水路が描かれており、そこに小淀川が出て来ていたと考えられるが痕跡らしきものは見えない。地籍図上にそれらしい筆があるが、実際には空間としては残されていないようだ。
この写真は2020/8/30撮影。
路地
神田川に架かる伏見橋から北西方向の路地を東から見たところ。小淀川の水路は現在では住宅地の中を抜けていて確認することができないが、Google Mapなどではそれらしい残余地がところどころに残っているようだ。
写真の路地は小淀川が道路と交差する場所にあたり、おそらくは写真奥の電柱付近を小淀川が南北(写真では左右)に流れていたと思われるのだがまったく痕跡は残っていない。
ここからの写真は2025/4/12撮影。
池跡
そのまま路地を西へ進んでいくと、池があった場所の北端に出る。写真右奥へ向かう道路が池の周囲にあたり、写真奥は崖になっている。
周回道路
そこから振り返って左(南)側を見ると周回道路が大きく弧を描いて南へ向かうのがわかる。現在池跡は住宅地になっているが、東側の道路は池のヘリの形をそのまま残しているようだ。
昭和22年の空中写真には池の北東寄りに島があるように見えるが、そこもまとめて整地されてしまっているのでそちらの痕跡は残っていない。
くねくね
池の縁に沿ってくねくねと曲がる道路は、池の南側で坂を上っていく。
ゆりの木公園
坂道を上ったところにある中野区立ゆりの木公園から東を見たところ。公園奥の木立とその向こうの住宅の間に段差があり、そのあたりが小淀川の跡と思われるがそれらしい空間は残されていない。
マンション脇
いったん坂を上った道路は南へ向かうと再び坂を下っていく。小淀川は写真左のマンション敷地と道路の間付近を通っていたらしい。
写真正面の突き当たり左側、標識の脇で擁壁が南へ向かって伸びており、小淀川は擁壁の下を流れていたようだ。
駐車場
東側の小淀東通りから擁壁の南側にある駐車場を見たところ。小淀川はここで大きく西側に蛇行し、写真奥のマンションの手前を流れていたと思われる。
なかのデータマップでは、さきほどの突き当たりから青梅街道の手前まで水路として扱われている。
全国Q地図の東京都3千分の1地図(1961〜1962年)を見るとこの辺りは「木材市場」と描かれており、国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の首都圏における木材流通の実態に関する調査研究(林野庁林政部経済課, 1968)には中野区中央一丁目に東南市場という木材市場会社があったようだ。東南市場は昭和44年(1969年)に東京木材相互市場に合併されている。(参考:東京木材相互市場沿革
中本一稲荷神社
ここで青梅街道を少し西へ進んで中本一稲荷神社に寄り道。神社の社屋は崖の上にあって高稲荷とも呼ばれているそうだ。中本一というのは中野本町通り一丁目という旧町名から来ているとのこと。
本一東通り
青梅街道から南側の本一東通りを見る。古くはこの通りを小淀川が流れて来ていたらしい。
カーブ
本一東通りを進んでいくと道路は西へカーブしていくが、小淀川はまっすぐ豊水橋のたもとから流れて来ていたと思われる。
豊水橋
豊水橋から北に淀橋方向を見る。国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の東京府豐多摩郡中野町全圖 番地界入(小林又七、1929)を見ると写真左のマンション奥あたりで小淀川が神田川から分水していたようだが、痕跡は残っていなかった。
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