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烏山川周辺の水路敷群(牟礼分水)


東八道路の北側で牟礼分水は三鷹台団地に沿って3つのを流れと支流が合流していたが団地中央部分と西側を流れていた流路の跡は団地内には残っておらず、東八道路から北へ向かう三鷹台団地通りが中央流路(牟礼分水本流)の最下流部分跡になっている。
この写真は2025/1/13撮影。
この写真は2025/1/13撮影。

東側には並走するようにもう一つ道路があるが、こちらが北側流路の最下流部にあたる。
この写真は2025/1/22撮影。
この写真は2025/1/22撮影。

北側流路は並走する道路から三鷹市東多世代交流センター前の交差点で三鷹台団地通り(写真左の道路)の方から流れてきていた。
センター建物の北側(写真正面奥)に牟礼分水の支流からの流れがが合流していたがそちらの痕跡はない。
ここからの写真は2025/1/24撮影。
センター建物の北側(写真正面奥)に牟礼分水の支流からの流れがが合流していたがそちらの痕跡はない。
ここからの写真は2025/1/24撮影。

交差点から団地を抜ける道路を西側に抜けたところには青面金剛庚申塔が建っている。

戻って三鷹台団地通りを上流方向へ、通りの団地側には牟礼分水をイメージしたであろう親水公園が通り沿いに作られているが、水は流れていなかった。
この写真は2025/1/13撮影。
この写真は2025/1/13撮影。

途中、団地中央バス停の先で水路がいったん通りから団地側に逸れるところがあるのだが、逆に通り東側の駐車場の脇に地図などにはない水路敷が残っていた。
ここからの写真は2025/1/24撮影。
ここからの写真は2025/1/24撮影。

次の交差点でいったん通り東側の水路敷は通りに出ているのだが、そこからさらにまた東側から通りに向かう水路敷が残っている。こちらは地図にあるクランク状の流路にあたるようだ。

三鷹台団地通りがサミットストアの前を通り、東西に走る東京都道110号(人見街道)に突き当たるところまで進んでいく。
ここからの写真は2025/1/13撮影。
ここからの写真は2025/1/13撮影。

人見街道北側に立つ三鷹市牟礼地区公会堂の右(東)側を北側流路が流れていたようだが、駐輪場などになっていて写真奥で行き止まりとなっており通り抜けることはできない。

前の写真右側のフェンス手前には、三鷹市による牟礼の歴史が書かれた看板が建っている。
看板では詳しく触れていないが新編武蔵風土記稿三多摩編 第4巻には無禮(むれい)村という記載があり、牟礼、無禮という二つの書き方があったようだ。ムレという言葉について「多摩の地名」(武蔵野郷土史刊行会, 1980)には、「日本国語大辞典」に書かれている古代朝鮮語由来で「山」や「村」を指すという説などが紹介されている。関東には珍しい地名で九州に多いと言う。(参考:国立国会図書館デジタルアーカイブ所蔵資料)
看板では詳しく触れていないが新編武蔵風土記稿三多摩編 第4巻には無禮(むれい)村という記載があり、牟礼、無禮という二つの書き方があったようだ。ムレという言葉について「多摩の地名」(武蔵野郷土史刊行会, 1980)には、「日本国語大辞典」に書かれている古代朝鮮語由来で「山」や「村」を指すという説などが紹介されている。関東には珍しい地名で九州に多いと言う。(参考:国立国会図書館デジタルアーカイブ所蔵資料)

ここでいったん下流方向へ戻って、さきほどのクランクを西へ。ふとん店脇の木立の左側に排水路があり、そこが南側流路の跡と思われる。
この写真は2025/1/24撮影。
この写真は2025/1/24撮影。

サミットストア(写真奥の建屋)の南側、三鷹台団地16号棟西側の公園から北を見る。公園はまっすぐ北へ伸びている(写真手前は行き止まり)が、牟礼分水の南側流路は写真右手前から左奥へ斜めに通っていたらしい。また、写真右奥に見えるサミットストアの建屋付近を中央流路が通っており、そこから写真左へ向かって流路の間をつなぐ水路もあったようだ。
ここからの写真は2025/1/13撮影。
ここからの写真は2025/1/13撮影。

全国Q地図の東京都3千分の1地図(1959〜1960年)に三鷹台団地16号棟とサミットストアの位置を示してみた。
南北としたが三鷹台団地付近では東西に分かれている牟礼分水の間に、もう一つ牟礼分水の流路があるのがわかる。団地内は整地されてしまっているため、水路敷として確認できるのは東八道路北側の東端流路と、地図中央右付近に見えるクランク状の部分東側だけしかない。
南北としたが三鷹台団地付近では東西に分かれている牟礼分水の間に、もう一つ牟礼分水の流路があるのがわかる。団地内は整地されてしまっているため、水路敷として確認できるのは東八道路北側の東端流路と、地図中央右付近に見えるクランク状の部分東側だけしかない。

サミットストア西側にある赤とんぼ公園。南側流路は人見街道から写真右奥のマンション左側を通って、公園の真ん中を抜けていたようだ。水路敷としては残っていない。

全国Q地図で標準地図に1959〜1960年の水路を描いてみた。
人見街道と連雀通りの北側に牟礼分水が流れているが、現在の道路と一致している部分と、一致していない部分があるのがわかる。
まずは高山小学校付近まで、北側流路から順番に見ていこう。
人見街道と連雀通りの北側に牟礼分水が流れているが、現在の道路と一致している部分と、一致していない部分があるのがわかる。
まずは高山小学校付近まで、北側流路から順番に見ていこう。

北側流路は先ほど見た三鷹市牟礼地区公会堂奥の行き止まりの奥で保育園の裏側と園庭脇を抜け、西側の遊歩道から見える位置に出てくる。遊歩道自体は流路跡ではないが、写真左に向かう牟礼三丁目9番緑地は水路跡がそのまま利用されている(あとで改めてこちらも見ていく)。
北側流路は写真中央の木が立っているあたりで写真奥のアパート脇の流れと緑地を流れてきた流路が合流していたようだが、1959年の地図では奥から来る流れは失われている。
ここからの写真は2025/1/13撮影。
北側流路は写真中央の木が立っているあたりで写真奥のアパート脇の流れと緑地を流れてきた流路が合流していたようだが、1959年の地図では奥から来る流れは失われている。
ここからの写真は2025/1/13撮影。

地図では失われた流れの方へ進んでみる。住宅の間に細長い三角形の残余地があるが、そこがかつての北側流路跡と思われる。
写真奥で残余地が終わっているあたりで水路は右(東)から折れてきていたようなので、東側の井の頭公園通りに回ってみよう。
写真奥で残余地が終わっているあたりで水路は右(東)から折れてきていたようなので、東側の井の頭公園通りに回ってみよう。

井の頭公園通りを北上していくと、保育園の園庭に向かっていく水路敷らしき空間を見つけた。Google Mapなどではこの位置にアパートがあって水路敷として仕切られてはいなかったのだが、法務部登記所備付地図データではこの部分だけ別筆になっているので左右の土地とは所有者が異なるのだろう。標識の類がないので、公有地なのかどうかはわからない。
昭和20年ごろの空中写真では畦道か水路があるのが確認できる。
ここから北へ向かう道中に2箇所ほど水路敷っぽい空間があるのだが、私有地のなかにあるため撮影は差し控えた。
この写真は2025/1/24撮影。
昭和20年ごろの空中写真では畦道か水路があるのが確認できる。
ここから北へ向かう道中に2箇所ほど水路敷っぽい空間があるのだが、私有地のなかにあるため撮影は差し控えた。
この写真は2025/1/24撮影。

井の頭公園通りの東側(玉川上水寄り)の斜面には大きな屋敷が並んでいるが、その間に鳥居を備えた牟礼御嶽神社があった。
ここからの写真は2025/1/13撮影。
ここからの写真は2025/1/13撮影。

井の頭公園通りから西へ向かう道路に入ったところで、南向きに水路敷があるのを見つけた。奥は民家敷地となって閉塞しているが、地図上に残された水路の跡と思われる。

そこから西へ向かう道路が北側流路の跡となる。ここから三鷹市立第三中学校第二運動場の前までは道路に沿って水路があったようだ。

さて、人見街道まで戻って牟礼駐在所前の横断歩道。ここから中央流路跡を見ていく。地図に描いたように写真正面奥から来る遊歩道と川筋は一致しておらず、写真左のマンションの方から流れてきていた。
ここからの写真は2025/1/24撮影。
ここからの写真は2025/1/24撮影。

さきほどの北側流路との合流点から西へまっすぐ向かう牟礼三丁目9番緑地。
写真奥のあたりで北側流路から分かれていた流れと、西側からの流路が交差していたらしいが、痕跡は残っていない。
写真奥のあたりで北側流路から分かれていた流れと、西側からの流路が交差していたらしいが、痕跡は残っていない。

緑地から西側の道路に出たところ。中央流路は写真奥の道路を高山小学校の脇から流れてきていた。

道路を進んでいき、高山小学校の北側へ。写真奥で中央流路は校舎の方から出てきており、そこから上流は現在校舎や住宅地となっているところを流れていた。

ところで、さきほどの牟礼三丁目9万緑地出口のすぐ北側にある路地が北側流路から中央流路へ分かれる水路の跡、といいたいところだが国土地理院Webサイトで昭和50年の空中写真(国土地理院撮影)を見ると宅地化される前には更地になっており、いったん水路の跡は消えているので一度埋めた水路敷をあらためて道路として設定したようだ。

もう一度人見街道まで戻って今度は南側流路を見ていく。写真中央にある東京都水道局の牟礼1号水源と、写真左に見えるりそな銀行ATMの間にある道のあたりに南側流路が流れていた(道路と完全には一致していない)。

少し西側に寄り道して三鷹市消防団第五分団の建物脇にある二つ並んだ青面金剛庚申塔を眺めておく。

そこから少し北に進んだところ。連雀通りとのY字路に鳥居のある祠があった。

牟礼1号水源の脇から南側流路跡の道路を進む。地図で見る限りは、水路跡がそのまま道路になったのではなく区画整理されているようだ。

南側流路の跡を進んでいくと、高山小学校の敷地に突き当たる。そこから上流は小学校ができたとき(高山小学校は1959年開校)に失われたらしい。もとは小学校西側には水路が残っていたが、1965年前後に埋め立てられていき、その後小学校が西側に拡張されたものと思われる。

OpenStreetMapで高山小学校から分水口までの牟礼分水上流部を見る。
北側流路は道路に沿っていたためほとんどの部分を見ていくことができるが、中央と南側流路は道路のないところを通っている部分が多い。ここではこれまでと逆に南側から順番に見ていく。
北側流路は道路に沿っていたためほとんどの部分を見ていくことができるが、中央と南側流路は道路のないところを通っている部分が多い。ここではこれまでと逆に南側から順番に見ていく。

高山小学校の南側、連雀通りから入る行き止まりの道路奥にわずかに南側流路の水路敷が斜めに残っている(矢印部分)。写真左(西)方向は私有地になっていて水路敷としては残っていない。

そこから2つ先の路地を連雀通りに向かって見たところ。写真中央あたりで道路に食い違いがあり、その辺りを南側流路が通っていたのだと思われる。そこから連雀通りに向かっていく水路もあった。

そこから連雀通りを西側に進み、住宅地の間に残された水路敷の入口に回り込む。空中写真を見ると水路敷としては写真奥で左(北)へ曲がったところで終わっているようだ。

振り返って上流側には道路があり、その北側(右)寄りに水路が流れていた。

道路が二股になるところでは右の方が水路であった。右の道路は三木露風旧居跡の先で突き当たりとなるが、もとの水路はその先で北側流路と分かれて流れてきていた。

三木露風旧居跡はごく普通の民家。明治22年(1889年)兵庫県に生まれた三木露風は童謡「赤とんぼ」の作詞者で詩人でもあり、昭和3年(1928年)から昭和38年(1963年)に亡くなるまで当地に居住していた。
「赤とんぼ」の作曲を手がけた山田耕筰は谷端川そばの寄宿舎「自営館」で育ったという話は以前谷端川と周辺の水路敷群(宮原橋〜板橋駅)で紹介した。
この写真は2025/1/22撮影。
「赤とんぼ」の作曲を手がけた山田耕筰は谷端川そばの寄宿舎「自営館」で育ったという話は以前谷端川と周辺の水路敷群(宮原橋〜板橋駅)で紹介した。
この写真は2025/1/22撮影。

中央流路は高山小学校西側では区画整理された住宅地の中を流れていたため流路跡はなく、三鷹市立第三中学校第二運動場の手前から上流は現在の道路付近を流れていたようだ。
第二運動場の南側をカーブしながら北へ向かっていく。
ここからの写真は2025/1/24撮影。
第二運動場の南側をカーブしながら北へ向かっていく。
ここからの写真は2025/1/24撮影。

第二運動場北側にある駐車場の奥で北側流路から中央流路が分かれているのだが、あとで北側流路をたどるときにもう一度見ることになる。

最後に北側流路を玉川上水の分水口まで遡っていく。
牟礼分水の北側流路は現在道路として利用されており、地図の照らし合わせでは道路左(南)側を流れていたようだがそれらしい跡は残っていない。
ここからの写真は2025/1/13撮影。
牟礼分水の北側流路は現在道路として利用されており、地図の照らし合わせでは道路左(南)側を流れていたようだがそれらしい跡は残っていない。
ここからの写真は2025/1/13撮影。

ゆらゆらくねくねと蛇行しながら道路を進んでいくと、三鷹市立第三中学校が見えてくる。

第三中学校西側にある空き地に北側から水路跡が伸びてきているのが見える。

さきほどの駐車場北側から水路敷を下流方向へみたところ。入口は民家敷地に入らないよう覆われているが、奥の方は水路敷として残っているようだ。

振り返って上流側は道路になっている。写真中央あたりにある幼稚園のところで南側流路が分かれていたが、現在はその跡は残っていない。

幼稚園の前を抜けたところにある交差点。一見、左にある車止めが水路敷に見えるのだが、地図や空中写真を見る限り水路ではなかったようだ。牟礼分水は写真正面のところで右から曲がってくる。

右に曲がるとすぐにクランク上に左に曲がり、南北に通る道に出る。

クランクを出たところから上流方向を見る。やや幅の広い道の右側を水路が流れていたらしい。

北へ進んでいくと井の頭恩賜公園の南端に出る。

公園の東側ではガードレール付きの歩道部分が水路跡と思われる。

道路は井の頭恩賜公園の玉川上水側にある小鳥の森に突き当たって右(東)に曲がるが、牟礼分水は写真奥の方からまっすぐ流れてきていた。

右に小鳥の森、左に文化交流広場を見ながら木立ちの間を牟礼分水跡の遊歩道が通り抜けていく。

小鳥の森はバードサンクチュアリとなっていて立ち入りできないが、北端にある池はのぞき窓越しに眺めることができる。

小鳥の森の外にも水が流れる親水公園がある。

玉川上水の牟礼分水取水口の上には、小さな祠が祀られていた。

玉川上水の左岸側に渡って牟礼分水の取水口を見る。思ったよりも開口部が小さく、現在は水面よりもかなり高い場所にあるのがわかる。

取水口のやや下流側にある分水堰。東京市の送水ルートが変更されたことで玉川上水の水位が下がったことから、大正14年(1925年)ごろに設けられたという。