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神田川周辺の水路敷群(新堀・田用水)
地図その1
OpenStreetMapで小滝橋から中央線の神田川右岸を見る。
南豊島郡柏木村(のち豊多摩郡淀橋町大字柏木、淀橋区柏木)であった神田川右岸には、上流側の栄橋から下流側の小滝橋(おたきばし)に向かって用水路が開かれていた。
東京都公文書館所蔵の「東京市史稿 市街篇68」(東京都編, 1976)P703には、「田用水取調表」としてこの用水路が登場し、安政5年(1858年)に川本紋右衛門の発起で「新堀」を掘ったとある。川本紋右衛門は柏木村字成子の名主で、天正15年(1587年)に小田原城主北条氏から発せられた触書を所蔵するような旧家であるという(参考:東京市史稿 市街篇4)。
ところでこの新堀または田用水(いずれも一般名称で、この用水路を特定した名前ではないかもしれない)だが、中央線の北側、下流側にあたる部分(柏木村字小滝橋、字大町)は昭和5年(1930年)から15年(1940年)にかけて行われた土地区画整理事業によって大幅に町割が変更されたため、現在は流路跡がまったく残っていない。
 
戦後の空中写真でもすでに水路はなく、どのあたりを流れていたのかは明治大正期の地図をみなければならないが、地図に示したように明治43年(1910年)大日本帝国陸地測量部発行1万分の1地形図「新井」と、明治44年(1911年)東京逓信管理局及び大正15年(1926年)東京逓信局編纂「東京都豊多摩郡淀橋町 大久保村(大久保町)」では北柏木公園から下流の流れが異なっている。
陸地測量部地形図の流れ(小滝橋寄り)は明治末期の淀橋町大字柏木地籍図(「地図で見る新宿区の移り変わり 淀橋・大久保編」東京都新宿区教育委員会,1984に収録)にも同じ位置で描かれているので確認できるが、東京逓信局地図の流れ(亀齢橋寄り)は同資料では断片的にしか描かれていない。
とはいえ、後者の流路も東京都公文書館所蔵の水路敷公用廃止無代下付図面などに記載はあるので明治大正期には二つの流れがあったと推定される。
ちなみに、国立国会図書館所蔵の大正14年(1910年)内務省復興局作成の3千分の1地形図「落合南部」では中央線北側にあるはずの新堀の水路はまったく描かれていない。
下流端
まずは小滝橋寄りの下流端から。写真右側に見えるマンション手前あたりに水路が出てきていたはずだが、痕跡は全く残っていない。
ここからの写真は2025/4/4撮影。
駐車場
マンション南側に回って北柏木公園方向に向かう道路を見る。新堀の水路はこの道路付近を流れていたはずだが、元の地形と関係なく区画整理されているためだいたいこのあたりとしか言いようがない。
北柏木公園
いったん道路が途切れるので南に回って北柏木公園。左(東)側が斜面で高くなっており、公園中央あたりを南北に新堀が流れていたと思われる。写真中央やや左に見える大きな木のあたりで亀齢橋へ向かう流れが分かれていたのではなかろうか。
亀齢橋
小滝橋の上流にある亀齢橋(きれいばし)からはまっすぐ北柏木公園が見える。ここでも亀齢橋のやや下流寄りに出てきていた水路は区画整理で消え去っているので、だいたいこのあたりにあったという話になる。確認できていないが亀齢橋の下には雨水吐管が残っているようだ(参考:東京都下水道局 下水道台帳)。
もともと神田川は亀齢橋付近で大きく南へ蛇行しており、東京都公文書館の所蔵資料によれば大正15年(1926年)に蛇行部分の直線化が行われている。「地図で見る新宿区の移り変わり 淀橋・大久保編」(東京都新宿区教育委員会,1984)で昭和8年(1933年)の淀橋町市街図を見ると蛇行部分が消えて直線になっているのがわかる(前後にある蛇行部分は昭和10年の市街図でなくなっている)。
ここからの写真は2025/4/5撮影。
雨水吐管
一方、亀齢橋下流側に右岸から現役の雨水吐管が出ているのが見えた。右岸側には直線の道路が伸びているが、余水吐のようなものがあったのかもしれない。
親水公園
北柏木公園の南側には親水公園が作られているが、東から西へ流れており元の新堀とは関係がない。
ここからの写真は2025/4/4撮影。
不明
北柏木公園の南側では新堀の水路は現在の道路と異なり南西に向けて斜めに横切っていたため、現在その痕跡はまったく残っていない。
地図によってその流路は微妙にずれがあるのだが、おそらくは国土地理院Webサイトの昭和23年空中写真(米軍撮影)に残っている水路跡がそれと思われる。
写真は北柏木公園からひとつ南側の道路を東側から見たところで、新堀は写真中央に見えるコンビニ付近を流れていたのではないかと思われる。
路地
そこからまっすぐ進んで左(南)へ。写真奥の交差点標識のあたりに新堀が右(西)から左(東)へやや斜めに横切っていたのではと推定される。
ここからの写真は2022/7/23撮影。
柏木ガード
中央線をくぐる柏木ガード。北側の快速線の方が高い位置を通っているため道路の天井から線路までかなりの高低差がある。
新堀はガードよりもやや西側(写真右のマンションの向こう)を通っていたようだ。
地図その2
OpenStreetMapで新堀上流の旧柏木村南部を見る。
中央線の南側では概ね新堀の跡が道路になっているが、途中2ヶ所で公園や学校によって失われている。
突き当たり
中央線の南側から新堀が線路をくぐるあたりを下流方向にみたところ。行き止まりの道の先に駐車場があり、その東側に水路があったようだ。
なお、写真奥の駐車場には現在マンションが建っている。
上流方向
道路突き当たりから振り返って新堀跡を上流方向に見る。ほとんどまっすぐな道が南へ向かっているが、このあたりでは新堀自体まっすぐ流れていたらしい。
カーブ
行き止まりの道を出たところでやや左寄りにカーブしていく。
北新宿公園
しばらく進んでいくと水路跡の道路は北新宿公園に突き当たっていったん失われる。
続き
北新宿公園の南側、北新宿三丁目交差点のひとつ東側からふたたび水路跡が復活。淀橋近くのビル群を遠くに眺めながら進んでいく。
柏木小学校
すぐに柏木小学校に突き当たる。
再開
柏木小学校の南側から再開。栄橋手前まで直線の水路跡が伸びている。
歩道
途中一区画だけ歩道があるところが謎。
水路敷?
さらに進んでいくと神田川方向に水路敷っぽい細道があったが、地図では水路とは確認できなかった(地籍図では私道)。
神田川へ
直線だった水路跡は神田川に向かって右へカーブ。このあたりは柏木村字新堀という地名だった。
栄橋
栄橋が見えてきた。新堀は栄橋の上流側で神田川から分水していた。
排水口
栄橋付近に分水口の遺構は残っていないが、栄橋下流の右岸側には大きな排水口があった。東京都下水道台帳で見ると南を通る青梅街道などから流れてくる雨水管の出口になっているようだ。
ここからの写真は2025/4/12撮影。
水路
最後に左岸側になるが、栄橋付近の水路敷を眺めておこう。なお、西側の小淀川跡については改めてみていきたい。
栄橋から左岸側を少し下流側に進んだところにあるなんということのない民家の軒先。なかのデータマップでは通路部分が水路敷として扱われている。
ここは古い神田川の蛇行跡のようで、地籍図では水路敷になっていないものの、川跡と思われる地形の跡が複数残っている。
西側に回って裏道の三叉路(というか左は行き止まり)へ。写真左がさきほどの軒先で、なかのデータマップでの水路敷はそこから写真右の道へ向かっている。
地籍図では写真手前右にも水路の跡が残っているが、そこは民家になっておりすでに払い下げられているようだ。
長狭
右の道を上流方向へ。中野区の電灯もあるので区が管理はしているようだ。
藪
前の写真奥にあった段差を上ってみると、マンション北側に西へ向かっていく水路敷の藪が見える。入っていくことはできないが、ここが蛇行跡の水路敷と思われる。
通路
道の方はマンション東側に細い通路となって栄橋方向へ通り抜けることができるが、なかのデータマップではこの通路は水路敷としては扱われていない。
砂利道
通路を出て西へ向かうと、マンション脇に水路敷が砂利道として現れる。私有地として使われているようなので入るのは遠慮しておく。
舗装路
後ろを振り返ると上流(南)方向には舗装された水路敷が残っていた。
行き止まり
水路敷は南側で封鎖されていた。地籍図でも写真奥のところで終わっていて、神田川とはつながっていない。
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